「ミョウジさん、どないしてん」
三限目の授業の教科書を机から取り出しながら、ナマエを見るのは北だった。小首を傾げる北の眉はナマエを心配するように下がっている。
「え? なんで?」
「さっきから、というか、朝からずっとため息ばかりついとるで」
「あぁ……」
そうだったんだ、と思ったナマエは今朝の記憶を思い出す。きっと、不安になっているのは今にも雨が降り出しそうな雨雲のせいではないのだ。
「俺で良かったら相談にのるけど」
「ううん、大丈夫」
誰にも言わんといてな、と言われているのだ。特に北さんには、と。
まぁ、でも、北くんにはすぐ知られることにはなるんだけど。
「いつも、気にかけてくれてありがとう」
ナマエが北に微笑みかけると、次の授業が始まることを知らせる本鈴が鳴った。
それは、今朝。登校してきたばかりのナマエが教室に向かって廊下を歩いていた時のこと。
いつも、会うたびに陽気な様子で頭に手を乗せてくるその人物はまるで雪山に遭難したかのように、抱えた体を震わせてナマエの前に現れた。
「侑くん、おはよ。どうしたの? お腹痛いの?」
「腹は痛ないんやけど、ナマエちゃんにな。お願いがあんねん」
挨拶もおざなりに話を切り出してきた侑は余程の事情を抱えているのだろう。ナマエよりもうんと高い身長を持っている癖に、今日は随分と小さく見えた。
「お願い?」
弱々しく、コクリと頷いた侑。
「今日な、昼休みにバレー部のミーティングがあんねん」
「うん」
「ナマエちゃんにな、一緒に出てもらいたいねん」
「えぇっ!? なんで?」
まさかのお願いに声が大きくなってしまう。廊下を歩く生徒の注目を浴びたが、侑が近くにいるせいか。騒がしいのはいつものことか、とでも言うように皆は関心を見せる素振りもなく通り過ぎて行った。
驚くナマエを前に、ずっと顔を真っ青にしている侑は目を泳がせながらボソリと言う。
「なんでかは言われへん」
せっかくの後輩からのお願いだが、なんだか嫌な予感がする。侑がいつもナマエに言うように、ナマエには少しにぶいところがあるのかもしれない。しかし、決して空気が読めないと言うわけではないのだ。バレー部員でもなんでもないナマエがミーティングに参加するって、おかしくはないだろうか。ナマエでもそのくらいの疑問は持てるのだ。
ナマエからいつまで経ってもいい返事が聞けないことに侑は痺れを切らしたのか。
「ナマエちゃんしか頼れる人がおらんねん!」
ナマエの肩をがっちりと掴んで、真っ直ぐにナマエを見つめた。
いつも頭一つ分くらい上からナマエを見下ろしている侑であったが、今日はどうしてかナマエを見上ているように見える。侑が背中を丸めてナマエと目線を合わせているせいもあるだろうが、きっと、ようやく救いとなるマリア様を見つけたかのような希望に溢れる眼差しを向けてくるせいだ。
迷える子羊から向けられるキラキラの眼差しを見えないふりをするのはとても心が痛い。
「頼ってもらえるのは嬉しいんだけど、部員でもなんでもない私がそのミーティングに参加していいの?」
「参加してもらいたいねん」
「バレー部の人達がそう言ってるの?」
「そう言うわけやないんやけど……」
瞳をこれでもか、と言うほど右に寄せる侑。段々顔まで右に向かっていく。
侑のお願いを聞いてミーティングに顔を出せば、バレー部の人達と目が合う度に、お前なんでおんの? みたいな冷ややかな目で見られる羽目になることを悟ったナマエは気乗りしなかった。
「それ、私かなり場違いにならない?」
「ならへんならへん。今回はレギュラーメンバーしかおらんし」
「それはそれで場違い感が半端ないような気がするんだけど……」
「全然大丈夫やて!」
ナマエに向き直った侑はなぜこうも自信満々に言い切れるのだろうか。
「本当に?」
「ほんまほんま」
「えぇー……」
「お願いや、俺の命がかかっとんねん!」
「命!?」
肩を下げ、天に向かって嘆くかのようにして侑から出てきた言葉はやたら物騒。
「命がかかってるなら参加してあげたいけど……」
それでも嫌な予感しかしないナマエの腰は重たい。
「ナマエちゃんなら大丈夫やから」
何が大丈夫なんだか。
「お願いやー」
「えぇー……」
「俺にはナマエちゃんしかおらんねん」
結局、哀れな後輩の健気な瞳に押し切られた。
「分かった、いいよ」
「ほな、昼飯食い終わったら第一体育館に繋がる渡り廊下んとこ、来てな! あと、このことは誰にも言わんとってな! 特に北さんには!」
さっきまでの暗く沈んだ侑はどこへ行ったのやら。嬉しそうに片手を頭の上まで上げてブンブン振りながら去っていく侑を見て、ますます不安が募っていくナマエであった。
心配事があると、すぐに時間は経過してしまうらしく、午前中の授業はあっという間に終わってしまった。
友人二人と食事を取り、いつもであればそのまま三人で会話に花を咲かせるナマエであったが、友人に断りを入れ、侑と約束した第一体育館へと繋がる渡り廊下へと向かう。
屋根が取り付けられている外に面した渡り廊下に出ると、湿気が肌にまとわりついた。鉛色の空からはゴロゴロと音が聞こえてくる。
「あ! ナマエちゃん!」
ナマエを見るなり、顔をパッと明るくした侑はナマエの腕をギュッと握り、ナマエを体育館の方へと引っ張っていった。
男子バレーボール部と表札の出た扉を前に、侑はナマエの腕を離す。
「昼休みやのに、ほんまごめんなぁ」
申し訳なさそうに三角の眉を寄せて笑う侑がそっと、ロッカールームの扉を開いた。
「ごめん! やっぱり無理!」
扉の先を見てしまったナマエは引き返そうとしたが、侑に腕をきつく握られそれは叶わなかった。
「やっぱり無理だよ!」
扉の先には知らない顔をした体の大きな男子学生が十人近くベンチに座っており、彼らは扉が開くのに反応したかのように、こちらを見たのだ。手前に座る、寡黙な表情をした人とばっちりと目があってしまったナマエは、落ち着いた瞳が驚いたように見開かれるのを見て、凄まじい場違い感に襲われ、脱兎の如く逃げ出したかった。
「本当にごめんね! でもあそこに入るのは無理だよ!」
「俺の方が無理や!」
「私の方が明らかに無理だよ!」
「無理やないから! 大丈夫やから! 帰らんとって! お願いや!」
ナマエは全体重をかけて侑の手から腕を引き抜こうとするが、侑もナマエの腕を両手で掴み応戦する。綱引き状態だ。
「大丈夫だよ! ミーティングなんだから命に関わるなんてことは起こらないよ!」
「ほんまに起こりかねんから、こうしてお願いしてんねん!」
「大丈夫だよ!」
「大丈夫やない!」
「ミョウジさん、どないしてん」
突然かかった聞き慣れた声にナマエは、へ? と声をあげて声の先を辿る。同時に力が抜けてしまい、侑に引っ張られるがまま侑の胸に飛び込みかけたが、声をかけてきた人物が腕を伸ばして、倒れかけたナマエの肩を抱き止めてくれたため、侑との正面衝突は免れた。しかし、同じように力を抜いてしまったのか、ナマエの腕を離してしまった侑は、後ろに倒れ、尻もちをついたついでに一周後ろに回ってしまった。
「侑くん!? 大丈夫?」
「だ、だいじょーぶや……」
ヨロヨロとだが侑が起き上がったことに安心したナマエは自分を支えてくれている腕から体を離す。
「ありがとう、北くん」
ええよ、と言った北は、それでどないしてん、ともう一度同じ質問をナマエに投げかけた。
「えっと……」
「ナマエちゃんが来たいって言うてた――」
「俺はミョウジさんに聞いとんねん」
北にガラス玉のような瞳を向けられた侑はびくりと体を震わせる。瞬間、ポンと音が鳴り、侑は狐になってしまった。
辺りを見回して誰もいないことを確認した北は、お前はもう部屋に入っとき、と言ってロッカールームの扉を引く。
「はい、すんません」
四足歩行になった侑は素直に従い部屋の中へと入って行ったかのように思われたが、開かれた扉の前で立ち止まり、扉で体を隠しながら、ナマエと北を見上げた。
「で、どないしてん」
「えっと、その……」
侑くんに言われて来ました、って言ったら、後で侑くん怒られちゃうかな。
そう思ったナマエは、扉を盾のようにしてこちらを見上げる侑をチラリと見る。心配そうに太い眉を寄せている侑と目が合った。なんだか、気の毒だ。
「おおかた察しはつくけどな。侑に頼まれたんやろ。ついて来てくれって」
迷ったが、はい、と頷く。
「帰ってええよ。うちの部員が迷惑かけて悪かったな」
「せっかく来てくれたんにすぐ帰すなんて可哀想やないですか!」
扉に黄金の小さな前足をかけて侑が叫ぶ。
「私は全然――」
「帰らんとって。お願いや!」
扉の影からぴょんと飛び出た侑はナマエの足に前足でしがみつくと、無念、とでも言うように歯を食いしばり項垂れた。
なんて悲痛な表情。
「俺……これからリンチにあうねんっ……」
「リンチ!?」
不穏過ぎる単語にナマエは思わずおうむ返しをしてしまう。
「そんなん一人じゃ耐えられへん! せやから、お願いや! ナマエちゃん、帰らんとって」
イヤイヤと首を振って必死にしがみつく侑から北へと視線を移したナマエは、思わず、先程の侑のように体をびくりと揺らしてしまった。
侑を見下ろす北の顔。およそ表情というものが全く見受けられない。
『今ので寿命三年は縮んだで』
ナマエは、昔侑が言っていた言葉を思い出す。それは、北の彼女に手を出してしまったと思った侑がそれが勘違いだと知った時に漏らした言葉だった。
その時は大袈裟だなとは思って聞いていたナマエだったが、北くんにこんな顔されたら、寿命三年縮むどころか生きていけないかも、と思っちゃう。
ゴミグスでも見るような冷たい瞳をした北が口を開こうとした時だった。ロッカールームの扉の向こうから空の雲よりも明るい銀色が顔を出す。
「北さん。もう時間もないし、ナマエちゃんさえ良ければええんとちゃいます?」
「治くん……」
知り合いの顔が増えてちょっとだけ緊張の糸が緩む。小さなため息を吐いた北は観念したように言った。
「すまんな、こんな身内話に巻き込んで」