公園でいつも会う、おじいちゃんに引かれた毛がフサフサの犬に、心の中で勝手にポチと名付け、いつも追い抜かす女子の頭から垂れ下がる馬の尻尾が突然無くなり、友達でもなんでもないのにすっきりした首筋に驚愕してしまった五色は、思っていた。
最近、俺、運命の彼女と仲良くなれている気がする。
初めて、彼女と目が合ったその一週間後であっただろうか。五色は再び彼女と目を合わすことができたのだ。それからは早かった。目が合う頻度が、四日に一回ほどになり、気づけば、三日に一回ほどに。そして、二日に一回くらいは合ってるかと思う間もなく、毎日合うようになっていた。
仲良くなったと思う理由はこれだけではない。
目があった瞬間に五色は火照る顔を伏せてしまうのだが、それが彼女には挨拶のように見えたのかもしれない。五色は目が合い俯く寸前に、彼女がペコリと頭を下げるのを見てしまったのだ。
意思疎通ができてる!
これは、確実に関係が進んでいる。きっと、彼女と友達になる日がくるのも時間の問題だ。五色は、確信した。
そして、蝉が鳴き始め、痛いほどの日差しが差す季節がやってきた。日中の気温が上がり切った時間帯はとても外を走れるような環境ではないが、朝五時。五色が走りに寮を出る時間はまだ、夜の風が残っているのか。涼やかな空気を吸いながら五色はジョギングを続けていた。もちろん五色の運命の彼女も。
今や五色と彼女は、すれ違うたびに、互いにペコリと頭を下げ挨拶をする仲となっていた。しかし、それだけだった。
やはり、もっと彼女とお近づきになるためには、一歩を踏み出す必要があるのだろうか。勇気を出して、彼女に声をかける。お友達になってくださいと。
走っている彼女に声をかけることは未だ憚られるが、彼女とはもう頭を下げ合い挨拶をするような顔見知りの仲なのだ。一度くらいは彼女の足を止めても彼女は許してくれるのではないだろうか。天童に相談を持ちかけた頃に比べたら彼女に話しかけるハードルは随分と下がったように思えた。
朝五時。今日はきっと記念すべき日になる。
もうすぐ誕生日を迎える五色は、いつものように、目覚ましが音を立てたと同時にパチリと目を覚ました。着替えて、フルーツジュースで水分と少しの栄養をとって、寮の前でストレッチをし、靴底にバネでも忍ばせたかのように、弾んだ足取りで公園へと向かう。
おじいちゃんに引かれたポチに挨拶し、だいぶ髪伸びてきたなぁ、と隠れ出した首筋を見ながら元馬の尻尾女子を追い抜き、そして、やってきた、ジョギング折り返し地点。この時間帯は涼しいとはいえ、夏だというのに、春と変わらぬ手の甲まで袖のあるパーカーを着た彼女のお出ましだ。相変わらずつば付きの帽子を被った彼女との距離は一メートル。よし、今だと、五色は息を吸ったが、眩い彼女を真正面にすると、口から言葉が出ることはなかった。
やっぱり……話しかけられないっ……!
五色がそう思った瞬間に、彼女との一メートルの距離は無くなる。そして、目が合い、頭をペコリと下げ合い、さようなら。
五色は再び、重く苦しく、深刻な悩みを抱えることになってしまったのだった。
「あぁぁぁぁっ……」
夜。お風呂から上がり、クーラーでキンキンに冷えた談話室で夏休みの宿題を広げていた五色だったが、全く手がつかず、シャープペンシルを投げ出し、テーブルに突っ伏した。扇風機の行ったり来たりする風が、周期的に前髪を揺らすのを感じる。
どうしてか彼女を前にすると、開いた口が固まり、呼吸が止まってしまったかのように、声が出ない。恋焦がれる人に話しかけることは、クラスの女子に話しかけるように容易にはできないみたいだ。
何か、何かきっかけが欲しい。彼女と話しをせざるを得ないきっかけが。
例えば、ぶつかってしまうとか。もし、彼女とぶつかることができたのなら、”あ、すみません。大丈夫ですか?”と言わざるを得ないし、”いつもここですれ違いますよね”とまで口にしてしまえば、”実は友達になりたいなと思っていまして”、といける気がする。
しかし、ぶつかるなんて危ない真似はできないし、そもそも、見晴らしのいい道で二人しか走っていない中、彼女とぶつかりようがない。
「あぁぁぁぁっ……」
すれ違うあの瞬きのような時間で、どうすれば、話すきっかけが作れるんだ。
ため息は尽きない。
「なんだ、工。インターハイも終わって燃え尽き症候群か?」
背中からからかうような声がかかる。この声は瀬見さんか?
「いえ、燃えることすらできてない症候群です」
「はぁ?」
五色が顔だけを上げると、お前何言ってんだよ、と付け加えた瀬見が呆れた様子で見下ろしていた。
瀬見さんのような、女性経験豊富そうな人には俺の悩みなんて分からないでしょね、と思った五色はあっと閃く。どうして今まで気がつかなかったのか。こう言う相談事に一番打って付けな人物がこんなにもそばにいたではないか。
「せ、瀬見さん! 俺の相談に乗ってもらえませんか!」
五色は隣に座った瀬見に、天童に相談したときとは違い、自分の話として、全てを正直に話した。
入寮した時からずっと続けている朝のジョギングでいつもすれ違っている女子がいる。彼女とは、すれ違い側に、互いに頭を下げるほどの顔見知りにはなったが、それ以上の関係ではない。なんとか、彼女と仲良くなりたいのだが、彼女を前にすると、緊張してしまい話しかけることができない。どうすれば緊張せずに話しかけることができるのか。何か、話をせざるを得ないようなきっかけがあると助かるのだが。
相槌を打ちながら、真剣な様子で五色の話に耳を傾けていた瀬見は話を聞き終えるや否や、腕を組み、うーん、と唸り出す。
「勇気いるよな、話しかけるの」
「そうなんですよ!」
「そうだなー」
自分のことのように悩んでくれている瀬見はとても頼もしい。このまま悩みが解決へと向かってくれれば良いのだが。
目を閉じ、眉間に皺を寄せながら首を捻る瀬見を、五色は固唾を飲んで見守る。
あっ! と声を上げ目を開いた瀬見はやはり五色の期待する通りの恋愛のプロフェッショナルであってくれるのだろうか。緊張に包まれながら五色は瀬見の次の言葉を待つ。
「その子の前で物を落とすとかどうよ? 流石に拾ってもらえるだろ。その時ちょっと話せばいいじゃねーか」
妙案のようにも思えたのだが。
「落とすような物なんて持ってないですよ。走ってるんですから」
「鍵とかあるだろ。部屋の鍵とか。スマホ取り出すフリして落とせばいいんだよ」
なるほど! と声をあげた五色は、暗闇を彷徨う中、眩い光を放つ出口を見つけたかのような感動を覚えた。
「流石、瀬見さん!」
「だろ! 先輩舐めんな」
落としたことに気づいてもらえるよう、ちゃんと鍵に目立つキーホルダーつけとけよ、と自慢げに笑う先輩の髪は扇風機の風によって涼しげに揺らされていた。
瀬見に相談した翌日。いつもの時間、朝五時。五色は昔誰かからもらった舌を出した犬のキーホルダーをつけた鍵がポケットに入っていることを確認し、寮を出る。今日こそ記念すべき日になる、と張り切って地を蹴った。
すっかり慣れた道を、すっかり慣れた足取りで進み、運命の場所。緩やかなカーブの先で、彼女を見かける。
五色はポケットに手を突っ込み、スマートフォンと鍵が入っていることを再度確認する。準備は万全だ。あとは、すれ違う直前で鍵を落とせばいい。ナイスです! 瀬見さん! と、まだ眠っているであろう瀬見に感謝の念を送れば、彼女はすっかり目の前に。今だ! とポケットに入れた手で鍵とスマートフォンを握りしめ、取り出す。
あっ、と五色は声を漏らした。
五色の手には、寮の鍵。重力に従うのは、裸のスマートフォン。角から地面に落ちたスマートフォンは、硬いアスファルトの上を一度小さくバウンドし、黒い液晶画面を表にして、着地した。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ! スマホ! 俺のスマホ!」
思わず足を止めた五色は両手で頭を抱えて天を仰ぐ。
先週買い替えたばっかりの五色のスマートフォンには、蜘蛛の巣のようなヒビがびっしりと入っていた。
やばい。母さんに殺されるっ……!
先程かいていた汗とは別物の何かが全身から吹き出すのを感じながら五色は頭の中で、母親への言い訳を模索し始める。なんと言えば、一番ダメージが少ないか。殺されないか。いや、なんと言っても殺される。先週買い替えたばかりなのだから。暫く割れたまま使うか? なんてとこまで考えた時。
「大丈夫ですか?」
「へ?」
視線を空から前へ移せば、五色の割れたスマートフォンを手にした彼女が困ったような笑顔を浮かべて立っていた。
拾ってもらえた! しかも話しかけられてる!
「大丈夫です!」
「スマホ、思いっきり割れちゃいましたね」
「はい! でも大丈夫です!」
静かな朝の空に響き渡るほど元気に返答をした五色は震える両手で、彼女から割れたスマートフォンを受け取る。やっぱり割れたまま使っちゃおっかな、なんて思ってしまう。なんたって彼女に拾ってもらえたスマートフォンなのだから。
「じゃあ、私はこれで」
「はい! 拾っていただきありがとうございました!」
小さく頭を下げて背を向け走り始めた彼女に五色は直角にお辞儀した。
地面を眺めている五色の頭には沢山のお花が咲いていた。ふわふわとした気持ちで顔を上げると、彼女の背中は随分と小さくなっていた。
五色は受け取ったスマートフォンと手に握っていた鍵をポケットにしまい、走り始める。体は羽が生えたかのように軽かった。
あんな、声で話すんだ。あんな風に笑うんだ。素敵だなぁ。
そこからはずっと彼女の笑顔とかけられた言葉を延々と頭の中で反芻し、ただ、体に染み付いたいつものペースで体が勝手に寮へ向かうのに任せるのだった。
朝食をとりに食堂に向かって廊下を歩いていた瀬見は、前方から緩みきった顔で歩く五色を見つけた。
「瀬見さん! おはようございます!」
瀬見に気づいた五色は急に眉をキリッとあげて、声を張り上げ挨拶をする。
「相変わらず工は朝から元気だな」
「今日は特に元気っす! 瀬見さん! ありがとうございました!」
「いきなりなんだよ」
五色に突然勢いよく頭を下げられビクッと肩を上げた瀬見は戸惑う様子で問いかけると、再び五色は勢いよく頭を上げた。
「今日話せました! 昨日相談した女の子と!」
「おおっ! 良かったな!」
「はい! 鍵じゃなくてスマホ落としてしまったんですけど!」
五色に自慢げに割れたスマートフォンをかざされ、スマホは残念だったな、と瀬見は苦笑する。
「で? 連絡先はちゃんと聞けたか?」
スマートフォンをかざしたまま、固まった五色に、瀬見は何かを察したのか。慌てたように質問を変えた。
「さ、流石に、名前は聞けただろ」
口を一文字に結んだ五色は悔しそうな顔で天を仰ぐ。
「いえっ……! 連絡先も、名前もっ……聞けませんでしたっ……!」
「お前……何のためにスマホ割ったんだよ」
「ですよね!」
歯を食いしばり、ぎゅっと目を瞑った五色のまつ毛を涙が濡らしていた。