いつものように、目覚まし時計が鳴った瞬間にアラームを止めた五色だったが、今日は布団から出るのが憂鬱だった。なんせ、寒いのだ。いつにも増して寒い気がするのは気のせいだろうか。低血圧とは無縁であるが、温かな布団の誘惑は人並みに感じる。しかし、こんなことで挫けているわけにはいかない。新しいチームは始動しているのだ。意を決して、布団をめくる。途端に肌があわ立ち、ブルリと震えた体が外に出ることを拒絶したので、布団の中で着替えた。

 首を縮め、両腕を抱えながら食堂へと向かう。誰もいないしんと静まり返った広い食堂。ますます身を縮こめさせられた。
 流石にこの寒い中、冷蔵庫でキンキンに冷えたジュースは飲めない。そんな蛮行考えただけでも身が凍りそうだ。
 向かった先は冷蔵庫ではなく、共用の食器棚。お椀を取り出し、その横に設置されている共用の棚を覗いて”五色”とマジックでデカデカと書かれたコーンスープの箱から銀色の袋を一つ取り出す。ポットが並ぶ台まで歩き、お椀の中に黄色い粉末を入れ、お湯を注いだ。
 湯気の舞うお椀を片手に食堂の椅子を引くと、椅子が床を引っ掻く音がやけに響いた。
 席につき、震える両手で温かなお椀を抱え、ふぅふぅ息を吹きかけながらスープを一口一口、口に含んでいく。スープが体に落ちる度に、体の内側から熱がじんわりと広がっていった。全て飲み干し、ほっと一息つくと口からこぼれたのは穏やかな息。
 空になったお椀を持って、食堂の端にある、学生が使うことのできる小さな水場に向かう。指先の感覚を麻痺させるような水に、冷てぇ、と叫びそうになりながら洗剤をつけたスポンジでお椀を洗って、布巾で拭いたら、元の食器棚に戻した。
 今日もジョギングスタートだ。
 壁に吊るされたカレンダーを尻目に、もうすぐ今年も終わりかぁとぼんやり考えながら、ロビーへと向かった。

 外に出ると、せっかくスープで力が抜けた体に冷たい空気が刺さっていく。再び首を縮めながら、そろそろ手袋が必要だな、と、かじかみだした手に息を吹きかければ、吐いた息は白く変わった。こういう風に体が丸まる日は怪我をしやすい。しっかり準備運動しねーとな、と五色は強張った体を動かし始めた。あまりの寒さに、ストレッチだけは、ロビーでやればよかったと少し後悔したが、靴を脱ぐのも面倒なので凍えそうになりながら、筋肉を伸ばしていく。いつもより時間をかけて体を伸ばしていけば、段々と体がほぐれてきたてきたので、どんよりと重い鉛色の空を見上げながら、いつもの公園へと向かった。

 いつもの場所で出会うおじいちゃんにひかれたポチは、洋服を着ていた。お前も寒いんだな、と心の中で話しかけ、すれ違う。元馬の尻尾女子には、新たな尻尾ができていた。しかし、馬というよりも犬だな、と随分わびしい尻尾を眺めながら、追い越す。
 そして、見えてきた緩やかなカーブ。その先からやってくる赤いラインの入った紺のウインドブレーカーを着た彼女とは相変わらず目を合わせ、頭を下げ合うだけの関係だった。それでも、呑気にしているのは、最近の五色は、新チームのことで頭がいっぱいで、それどころではなかったからだ。まぁ、時間は無限にあるわけだし。今更焦ったところで、だ。来年にはきっと、なんて考えていると、いつものように彼女と目が合い、今日は一段と寒いですね、と話しかけた気分で頭を下げすれ違った。瞬間。後ろで大きな音が聞こえる。びっくりして、振り返ると、彼女がアスファルトに倒れていた。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
 五色の口からは勝手にそうこぼれ、五色の体は意図せず彼女の元に駆け寄り、気がつけば五色は倒れる彼女の横にしゃがみ込んでいた。
「大丈夫です、転んじゃって……」
 顔を上げた彼女は、顔を真っ赤にしながら笑っていた。立ち上がろうとしていたので、手を貸してやる。ありがとうございます、と言って五色の手を掴んだ彼女は痛そうに膝を曲げながら立ち上がったので、五色はもう一度、大丈夫ですか? と問いかけると、大丈夫です、と笑顔で返ってくる。本当に大丈夫だろうか。彼女の足元はおぼつかないようだった。五色はキョロキョロと周りを見渡す。五色の視線が止まった先には、屋根のついた休憩所があった。失礼します、とだけ言って五色は彼女を横抱きした。
「え、あ、えぇっ!?」
 五色は必死だっだのだ。恥ずかしいとか、嫌がられたらどうしようとか、そんなことは微塵も頭になかった。
 五色の肩にぎゅっと捕まった彼女を連れて、五色は休憩所に走った。

 その休憩所には、中央に屋根のついた四角い大きな柱があり、その周りを座れるようにベンチが設置されている。五色はベンチに彼女をそっと座らせた。
「大丈夫ですか?」
「はい、どうも……ありがとうごさいます……」
 呆気に取られた様子の彼女に見上げられ、なんで彼女はこんな顔しているんだろう、と思った瞬間、先程の自分の大胆すぎる行動を思い出す。
 やっちまったぁああぁっ!
 五色は頭を抱えた。
 なんてことをしてしまったんだ。彼女に許可なく触れ、あまつさえ、抱き上げ、こんなところに連れてきてしまった。これはもう、気持ち悪がられて、終わりだ。仲良くなるどころか、きっと、もう目も合わせてもらえない。なんなら、ジョギングコースを変えられてしまうかもしれない。終わった。完全に終わった、と五色は肩を落とす。ついでに涙まで落ちそうになった。
 とにかく、自分の無礼を謝ろうと、項垂れる延長で頭を下げる。
「すみません……足を怪我していたら……と思って……焦って……」
「いえいえ! 大丈夫です! 謝らないでください! ありがとうございました!」
 思いのほか明るく返ってきたので、恐る恐る顔を上げる。笑顔を浮かべた彼女は、謝らないで、とでも言うように両手の平をこちらに向けていた。
「足……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫みたい」
 ニコッと笑った彼女は、座ったまま膝を曲げたり、足首を回したりする。彼女のしなやかな動きを見る限りは怪我の心配はなさそうだ。しかし、俯いた彼女は突然、あっ、と声を上げた。
「え? 大丈夫ですか? やっぱり怪我をっ!」
「いえ、靴の紐が切れてるなって。今まで気づかなかった」
 てへっとでも聞こえてきそうな人懐っこい笑顔に五色は安心したし、やっぱり可愛いなぁと思ってしまった。仲良く、なりたいな。
「俺、五色工といいます! お時間良ければ少しだけお話できませんか!?」
 口を突いて出た言葉。今まで何度も言おうとして言えなかった言葉なのに、言ってしまえば、案外簡単に言えたような気がする。いいですよ、と彼女に微笑まれると、また泣きそうになってしまうくらい嬉しくて、安心した。

 ミョウジナマエと名乗った彼女の横に座る。彼女は隣町の高校に通う二年生だそうだ。五色が、俺は白鳥沢学園の一年です、と言うと、やっぱり年下かなって思ってたんだよね、と言われて、彼女も自分のことを意識してくれていたんだ、と思うと心臓をキュッと掴まれた気分になった。
「ナマエさんって呼んでもいいですか?」
「いいよ。じゃあ私は、工くんって呼んでもいい?」
「はい! 是非!」
 一気に距離が縮まった気がした。ナマエさんかぁ、ナマエさん、ナマエさん、とずっと知りたかった彼女の名前を何度も頭の中で繰り返すと、話したかったこと、聞きたかったことが湧き出てくる。
「ナマエさんは何かスポーツやってるんですか?」
「ううん、何もやってないよ」
「じゃあ、なんで毎朝走ってるんですか?」
「体型維持、のためかな。私太りやすくて」
 そうなの? と思い、彼女の体をスニーカーを履いた足のつま先からじっくりと見てしまう。スラリと長く伸びた足。曲線を描くお尻と胸。シュッと伸びた首に乗っかる小さな顔。毎日の彼女の努力が功を奏しているのか、全然、太っているようには見えなった。今はウインドブレーカーを着ているから分からないけれど、メイド服を着ている時は、キュッと腰がくびれていた。そういえば、メイド姿素敵だったなぁ。
「そ、そんなじっと見ないで」
 顔を真っ赤にした彼女は、五色の目を隠すように手を伸ばす。
「はい! すみません!」
 照れた姿も素敵です! と思った五色は、メイド姿を見たことは黙っとこ、と心に決める。ストーカーだと思われたら、たまったものじゃない。一度会いに行こうとしてしまったのだが。
「工くんは? 何かスポーツやってるの?」
「俺はバレーやってます」
「え? 白鳥沢で?」
 驚かれたようにそう聞かれ、五色は、はいとだけ答える。
「じゃあ、やっぱりあれは工くんだったのかな?」
 彼女は考え込むように首を傾げた。
「あれ?」
「夕方のニュースで春高予選のニュースやってたでしょ? たまたま見てたんだけど、今映った子、公園で走ってる子かなぁて思って見てたの」
「多分俺です!」
 うわー、見てくれてたんだ。しかも、俺を見つけてくれてたんだ。
 頬を包む冷たい空気なんて感じないくらいに五色の顔が熱くなっていく。
「すごいね! まだ一年でしょ? 白鳥沢って言ったら強豪校って有名だもんね」
 春高予選前の五色であれば、鼻高々に俺はそのチームの時期エースです、と言っていたかもしれない。けれども、チームは負けてしまったのだ。
 ボールが落ちた瞬間の記憶が五色を凍える曇り空の下に引き戻した。
「俺なんて、まだまだです」
 まだまだ、ダメなんだ、とつい、俯いてしまう。前だけを見ていなければならないのに。彼女の前ではカッコつけたかったのに。
 地面の白いコンクリートだけを眺めていると、段々と視界が狭まっていく。
「工くんは、まだまだこれからなんだね」
 すっと耳を通り、心に響いた”これから”という言葉。視界を囲っていた太くなっていく黒い縁は取り払われた。顔を上げれば、彼女が柔らかに微笑んでいた。
「頑張って。応援してる」
「はい!」
 久しぶりに、晴れやかな気持ちで前を向けた気がした。

「じゃあ、そろそろ行こっかな」
 彼女が立ち上がるので、五色は慌ててポケットに手を突っ込む。今度こそ彼女の連絡先を聞かねばならない。せっかくもこんなに仲良くなれたのだから。しかし、いつもポケットに入っているスマートフォンが今日に限って入っていなかった。今朝、ベッドで着替えるなんて、普段と違うことをしたから、きっと忘れてしまったのだろう。まぁいっかと、肩を落とす。もう、普通に話せるようになったのだから、明日にでも聞けばいい。
「五色くんと話せて良かった」
「俺もです!」
 彼女が自分と同じことを思ってくれていたのだと思うと、飛び上がりそうになるくらい心が躍る。明日必ず連絡先を聞こう。そして、もっともっと話をして、仲良くなりたい。
 靴紐が切れたので歩いて帰るという彼女に、家まで送ります、と言ったが、学校遅刻しちゃうよ、と笑われ、学校には遅刻しないが、朝練には遅刻してしまう、と思い直し彼女を送ることは断念する。
「では、失礼します!」
「うん、今日は本当にありがとう」
 そう言った彼女は、走り出そうとする五色に手を振る。ありがとうはこっちの台詞です、なんて思いながら五色は勢いよく一礼し、走り出した。

 寮へと向かう、軽やかな足取り。
 きっと、俺とナマエさんとの時間はまだ始まったばかり。
 そんなことを考えているだろう五色の顔には、垂れ下がる灰色の雲なんて吹っ飛ばすくらいの眩しい笑顔が浮かべられていた。