ようやく彼女の名を知ることができたその翌日。五色はポケットにスマートフォンが入っていることを確認し、今日こそは連絡先を聞くぞ、と張り切って寮を出た。
 空には、触れた瞬間に水がボトボトとこぼれ落ちそうな程に重そうな雲が浮いている。今日は雨が降るのだろうか。いや、この気温だ。きっと雪になるに違いない。やっぱり手袋が必要だな、と感覚を失った指先に息をはーっと吹きかけ、寒さから指先を守るようにぎゅっと手を握りしめ、公園に向かって走り出した。

 走り初めたばかりの体を包む空気は、喉を凍らせ、肺を刺したが、公園に着く頃には、熱くなった体を冷やす丁度いい風に変わっていた。
 早く、彼女に会いたい。会って、今日こそは、連絡先を聞きたい。そして、メッセージを送り合って、彼女の趣味とか、好きな食べ物とか、休日の過ごし方とか、たくさん彼女のことを知りたい。
 五色のことも知って欲しい。バレーが好きなのだということや、今練習しているプレーのことや、目標としている先輩がいることを話したい。
 いや、しかし、バレーの話は彼女には退屈だろうか。彼女はスポーツをしていないと言っていた。
 それなら、彼女の好きなことについて話をしよう。テレビが好きだというなら彼女が好きだという番組を見てみよう。本が好きだというなら、彼女が好きだという本を読んでみよう。他になんの話題があるだろうか。なんでもいい。彼女といっぱい話をしたかった。
 そして、もっともっと仲良くなって、こんなことを考えるのは気が早いかもしれないが、できれば、部活がオフの日に一緒に出かけてみたい。どこでもいい。彼女の好きな場所に一緒に行こう。彼女がどこに行きたいか決められないというなら、彼女が楽しめそうなところ。頑張って探そう。あとは、なんだろう。
 なんでもいいのだ。もっと仲良くなれるのなら。すれ違うあの一瞬よりも、長く、共に過ごすことができるのなら。
 早る気持ちを抑え、いつものペースで走る。いつの間にか、おじいちゃんに引かれた犬とすれ違い、一つに髪を結った女子を追い越していた。
 そうして、ようやく着いた、コースの真ん中。彼女を連れてくる緩やかなカーブ。しかし、今日は彼女を連れてきてはくれなかった。
 がっかりはしたけど、大して驚くことでもない。こういう日はたまにある。今日みたいに今にも雨が降りそうな日や、風が強い日。なんでもない日にも彼女とすれ違わなかったことはある。きっと、今日は、彼女にとって、そういう日だったのだ。
 明日こそは、と思い、真っ直ぐ寮へと帰る。そして、待ち侘びた明日が今日となり、ポケットにスマートフォンがあることを確認し、前の日と同じように、ワクワクした気持ちで、いつもの時間に寮を出た。しかし、その日も彼女に会うことはなかった。再び、明日こそは、と思う。
 そして、待ち侘びた明日という日が彼女に会えない今日という日になることが何日も、何日も続いて、もしかしたら、彼女が転んだあの日、彼女は怪我をしたのかもしれないと心配になった。彼女の怪我の具合が気になるが、連絡先も知らない。どこに住んでいるかも知らない、と確認する術を持たない五色は、早くナマエさんの怪我が良くなりますように、と祈りながら、新しい年を迎えた。
 しかし、彼女はいつまで経っても、緩やかなカーブの先からやってくることはなかった。
 もしかしたら、彼女に避けられているのでは、と五色は思った。彼女が転んだあの日。本当は、五色に抱きかかえたことを彼女は不快に思っていたのかもしれない。だから、五色は彼女に避けられているのだと。避けられているのであれば、仕方がないが、もう一度会って、一言謝りたかった。いや、それは体のいい口実でしかない。ただ、会いたいだけなのだ。
 いつもより、早起きをして、いつもより早い時間に走りに出たり、朝練に間に合う時間ギリギリまでコースの中腹で彼女を待ったりしてみた。それでも彼女に会えなかったので、コースを反対周りしたり、園内の別のコースを走ったりもしてみた。
 しかし、彼女と巡り会うことはなかった。
 避けられているなら、避けられているで、もうそれでいい。でも、もし。もし、もうこの世のどこにも彼女がいないのだとしたら、とまで考えてしまう。
 コースの中腹を通る度、彼女と今日も会えなかったと思い、胸が苦しくなって、気がつけば、視界が歪んでいた。
 泣いても仕方がないだろ!
 頬に涙が伝う度に、下を向きそうになり、自分を奮い立たせようと頬をバチンと両手で挟んだ。
 どうして、もっと早く話しかけなかったんだ。どうして、あの日、スマホを忘れてしまったんだ。どうして、また会う約束をしなかったんだ。
 積もり積もっていく後悔。
 しかし、それは降り積もった雪が解けるのと一緒に解けていった。そして、公園の桜が満開になる頃には、五色は、もう、彼女のことを思い出すことはやめ、蝉が鳴く頃には、彼女のことを忘れた。


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 今年もやってきた春高予選。白鳥沢学園は準決で敗退。先輩達が皆引退し、最年長となった五色は、なお一層身を引き締め、前を向き、チームを引っ張っていかねばならない。エースとして。

 朝五時の目覚ましでパチリと目を開いた五色は入寮してからずっと続けているジョギングに出るため、体を起こす。今日はやたらと寒い。思い切ってベッドから出た五色は、一度ブルリと身を震わせ、相部屋の友人を起こさぬよう、そっとウィンドブレーカーに着替え、部屋を出た。

 食堂に降りて、共用の食器棚からお椀を取り出し、お椀にフリーズドライの味噌汁を入れて、ポットからお湯を注ぐ。食堂の席につき、箸でほぐしてから、ふぅふぅと湯気を散らしながら、飲み切ると、体は内側から熱が染みるように温まっていった。食堂の端にある小さな水場で、箸とお椀を、鋭い針のような水で、冷てぇ、と叫びそうになりながら、洗い、布巾で拭いたら、食器棚に戻す。今日も走るか、と呟き、ロビーへと向かった。

 外に出ると、凍えるような空気が、味噌汁で温まった体から急速に熱を奪って行く。ストレッチはロビーでやれば良かったな、と後悔した五色は、赤くなった指先に、はーっと白い息を吹きかけた。そろそろ手袋が必要だな。そう思った瞬間だった。五色の目には涙が浮かんでいた。そういえば、こんな寒い日だった。ずっと恋焦がれた彼女の名を知った日は。忘れていた記憶が一気に蘇る。
 あの緩やかなカーブで出会ったナマエさん。運命だとはしゃいだが、今思えば、それほど特別な出会い方はしていないような気がする。それでも、やっぱりあれは運命だったのだと思いたい。
 ようやく目が合って仲良くなれたと喜んだが、走っている時、割とすれ違い際に誰とでも目が会うことを最近気づいた。けれども、やっぱり毎日目が合うのは互いに意識していなければ無理だと思う。
 話すきっかけになった、割れたスマートフォンは暫くそのまま使っていたが、実家に帰った時にみっともないと叱りつけてきた母親に無理矢理、修理に出された。彼女と初めて言葉を交わした日のことを思い起こさせてくれるあの割れた画面には愛着を持っていたため、少しショックだった。
 そして、ナマエさんのメイド姿。とても可愛かった。写真を撮らせてもらいたかった。でも、写真なんて持っていたら、きっと、いつまでも消せずにいたのだろう。
 冷えた五色の頬に熱い涙が伝う。拭っても拭っても涙は止まらなかった。
 ナマエさんは今、どこにいますか。今日みたいな、寒い日に、あの休憩所で、応援してる、と言ってくれたことを覚えていますか。俺はちゃんと頑張ってます。まだまだこれからだと言ってくれたナマエさんに、これからの俺を見せたくて。
 空を見上げると、今にも雪がちらつきそうな、鼠色の雲が空を覆っている。深く深呼吸をすると、鼻から通った冬の風が熱くなった体を冷やし、心を落ち着けさせてくれた。
 涙も止まったことだし、ストレッチを始め、しっかり筋肉を伸ばし、走り出す。白い息を吐きながら。
 その日は、コースの中腹で、少し、ドキドキしてしまった。けれども、いつもと変わらぬ景色に少しがっかりし、彼女の名を知った休憩所を一瞥して、寮へと戻った。

 暫く、彼女の記憶は五色を付き纏った。どうしてか、朝の手を擦り合わせるような寒さが彼女の記憶を喚起させるのだ。彼女の名前を知れて嬉しかったという気持ちと、どうしてもっと早く声をかけなかったのかという後悔の気持ちと共に。
 寒さが彼女の記憶を呼び起こすのは、きっと、昨年の寒かった日々は、彼女のことでいっぱいだったからかもしれない。朝早くに寮を出て、朝練に間に合うギリギリまで彼女を待ったり、別のコースを走ってまで彼女を探したりして。
 しかし、寒さが和らぐ頃には、五色は、彼女のことを思い出すことはやめ、彼女と出会った桜が咲く頃には彼女のことを忘れた。