五時の目覚ましで、薄らと目を開いた五色も、もう大学生。あくびをしながら伸びをした手で目覚ましを止めた。一人暮らしなのだ。寮にいた頃のように、相部屋の友人に気を使って、素早く目覚ましを止める必要はない。布団から出ようとするが、なんだか今日は一段と布団の中が暖かい気がする。こういう時は、布団を捲ると、さむっ、と体がブルリと震えるのだ。勇気を出してなんとか布団の誘惑を断ち切りベッドを出る。やはりさむっ、と体が震えた。
 昨日、洗濯し、部屋干ししておいたウィンドブレーカーを取り込み、寒さに怯えながらスウェットを脱いで、やはり攻撃してきた恐ろしく冷ややかな空気に急いでウインドブレーカーに着替えた。脱いだスエットは畳んでベッドに置く。高校時代は、脱いだスエットはベッドに投げ捨てていたのだが、白布に怒られて以来は、こうして綺麗に畳んでベッドに置いているのだ。
 都内の狭いワンルーム。少し進めばキッチンに到着。ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。お湯を沸かしている間に、箸とお椀を取り出し、お椀にはインスタントのわかめスープの粉末を入れた。お湯が沸くまでぼーっと壁に吊るしたカレンダーを眺める。そろそろ今年も終わりか。大学生になって初めて迎える年末。そういえば年末年始は母親から実家に帰ってこいと言われていたな、と思っているとケトルから、パチンと軽い音がする。お湯が沸いたのだろう。まだぐつぐつ音を立てるお湯をお椀に注ぎ、縮んでいたわかめが広がっていくのを眺めながらあくびした。空になったケトルを元の場所に戻し、湯気がゆらゆらとたつお椀を持って、ダイニングテーブルの椅子を引き、腰を掛ける。ふぅふぅと冷まして、少しずつ体に流し込んだ。スープの通った気管からゆっくりと熱が広がっていくのを感じながら全てを飲み切り、立ち上がると、シンクにお椀と箸を置く。そして、冷てぇ、と心の中で叫びながら、お椀と箸を洗い、水切りカゴに入れたら、準備完了だ。五色は玄関へと向かった。
 マンションを出ると、やっぱり五色の体は丸まる。一番最初に氷漬けにされた指先に、はーっと息を吹きかければ、吐いた白い息が、指先を温めた。そろそろ手袋が必要だな。そう思った刹那。蘇る懐かしい記憶。思わず笑ってしまった。どうしてか、今年も寒さが彼女を連れてきたようだ。
 入念なストレッチを終えた五色は、白い息を吐きながら、未だ眠る住宅街を抜け、いつも走っている近くの公園へと向かった。

 もう、ナマエを思って泣くことはない。高三には念願の彼女もできた。大学に入学し、遠距離恋愛を続けた末に、つい、先月別れてしまったのだが。
 けれども、高三の冬も、指先がかじかむ季節になるとどうしてかあの甘酸っぱくも苦い記憶を呼び起こした。そして、今年の冬も。
 きっと寒さを感じる感覚器官に定着してしまった記憶なのだろう。脳と体で覚えてしまっているのだ。
 ナマエの記憶を思い出しては、あの頃はどうして、あんなにも必死だったのだろうか、と不恰好だった自分につい、笑ってしまう。そして、あんなにぐずぐずせずに、とっとと声を掛ければ良かったのに、と幼かった自分に苦笑を禁じえなかった。
 ナマエさんは、元気だろうか。
 五色の知らない世界へと行ってしまった彼女は、元気だろか。
 息が白く変わるこの季節だけ、五色は、彼女と一緒に走っていた。

 そして、季節は巡り、寒さが和らぐ頃には、彼女は離れていき、桜が咲く頃には、彼女はもういない。
 五色は大学二年生になった。

「何、見てんの?」
 講義が始まる前。隣で唸り声を上げながら、ずっとスマートフォンを眺めている友人に五色は声をかけた。顔を上げた友人は、難しい顔で答える。
「バイト、探してんだよ」
「今のバイト辞めんの?」
「いや、も一個増やそうと思って」
「ふーん」
 大変だな、とは思ったが、友人は部活もしていなければ、サークルにも所属していない。いつも暇そうにしている彼の時間はきっと有り余っているのだろう。
 バレーに忙しくしている五色は、バイトをする時間はないが、バイトというものに少し興味があった。友人がいつも楽しそうにバイトの話をしてくるからだ。
 飲食店で働くっているのはどういう感じなんだろう。バイトの仲間ってどういう感じなのだろう。
 バイトをしたことがない五色にとって、それは、ちょっとした未知の世界だった。なんとなく、友人のスマートフォンを覗く。
 バイト先の店名の下に、太字で”週一ok!! ホールスタッフ”と書かれている。週一でいいんだ、と思いながら、時給を眺めて、一時間働いてこんだけしか貰えないんだ。厳しいなぁ、と思う。そして、その下にある、もう一つの求人情報を見ようとした時、画面の一番下で、ちかちかと表示を変える広告が目に入った。思わず、スマートフォンを握る友人の手を掴む。
「これ! この画面! スクショ送ってくれ!」
「五色もバイトやんのかよ」
「ちげぇーよ! 広告の方!」
「はぁ?」
 怪訝そうな顔をした友人は、スマートフォンの画面に視線を落とす。
「何、お前。エステなんかに興味あんの? つか、これ女向けだ、ろ……って何泣いてんだよ!」
「うるせーな! 早く送れよ!」
 五色の頬には、大粒の涙が伝っていた。友人にギョッとした顔をされて、五色は慌てて頬を擦る。それでも、涙が止まらなくて、一度頭を冷やそうと、友人に、ちゃんと送れよ! と念押しし、教室を出た。入れ替わりで丁度教授が教室に入っていくのが見えたが、講義どころではない。トイレに向かって春になってもまだ冷たい水で、火照った顔を洗う。二度、顔を洗った後、ポケットの中で、スマートフォンが震えた。鼻や顎から水を滴らせたまま、濡れた手で、ポケットの中にあるスマートフォンを取り出す。先程話していた友人からの新着のメッセージを知らせる表示をタップすると、出てきた画像に再び目頭が熱くなった。
 良かった。ちゃんと、生きてたんだ。この世界に、いてくれてたんだ。
 友人が送ってくれた画像の一番下にある、エステの広告。右端に、笑っているナマエがいた。