※夏の虫ネタ。ちょっと不謹慎、ちょっと暴言※

 私たちは部屋の隅で抱き合いながら震えていた。目の前。ダイニングテーブルの下。見てはいけないものを見てしまったからだ。それは、そろそろ寝よっか、と私が工くんに言った直後のことだった。
 ダイニングテーブルの影でじっと佇み、静かに触覚だけを動かす存在に気を失いそうになっていると、工くんが私を守るように一歩前に出る。工くんのこんなにも逞しい背中を見るのは初めてだった。工くんの勇姿に泣きそうになりながら、胸の前で手を握ると、工くんは目の前の敵から目を背けることなく、長い腕をスッと横に伸ばす。
「ナマエさん、殺虫剤をっ……!」
 凛々しい声でそう言われ、私は頭を抱えた。
「ごめん! ないの!」
「なんで!?」
 驚愕した顔に振り返られる。
「まだ我が家に出たことないから!」
「出てから買うんじゃ遅いでしょ!」
「そうなんだけどっ!」
 今まで一度も出たことがなかったから出るという発想がなかったのだ。出るという発想がなければ、殺虫剤を買うと言う思考には至らない。平和ボケしていたことに激しく自責の念に駆られていると、工くんは床に落ちていたバレー雑誌を広い、おもむろに丸め出す。
「分かりました。こいつで勝負しましょう」
 じりじり、とへっぴり腰で敵に近づこうとする工くんに慌てて、やめて! と声をかけた。
「潰したらべちゃってなるじゃん!」
「じゃあ、どうしろと!」
「外に逃してよ!」
「無理でしょ!」
 へっぴり腰のまま丸めた雑誌を振り上げた状態で困惑した顔だけをこちらに向ける工くんは私の決断を急かす。
「いいですよね!? やっちゃいますよ!?」
 床にへばりついたのを片付けるの嫌だな。潰れてしまったのを想像しただけでも鳥肌がたつ。でもこのまま寝るわけにもいかないし。
 うーっ、と唸りながらも、なんとか苦渋の決断をする。
「分かった! もう潰していいから!」
「分かりました! じゃあ……いきますよ……」
 何かを覚悟したかのように静かにそう言った工くんは、また一歩、一歩とダイニングテーブルに近づいていく。振り上げている丸めた雑誌を更に振り上げ、勢いよく床に叩きつけた瞬間だった。工くんが、うわぁっ、と声を上げたかと思えば、一直線へこちらに飛んでくる物体。
「いやぁあぁっ!」
 反射的に頭を抱えて、横に避難する。
 もう、ほんと、泣きそう。ほんと、泣きそう。
「バカ! バカ! 工くんのバカ!」
「俺だって不本意ですよー」
 敵の所在地は、ダイニングテーブルの下から、私が先程まで立っていた場所の後ろにある淡い緑のカーテンへと移った。
 再び、二本の線が歪に動く様子を見て血の気が引くのを感じたが、今度こそ! と言って丸めた雑誌を振り上げた工くんに、また、やめて! と声をかける。
「カーテンにべちゃってなる!」
「じゃあ、どうしろと!」
 このお部屋を借りた時にホームセンターで工くんと一緒に選んで買ったカーテンなのだ。何色がいい? って相談して、落ち着いた色がいいよね、とか、白っぽい色だと汚れが目立つかな、とか言いながら一緒に買ったカーテンなのだ。そこにべちゃは無いよ。
 でも、このまま寝るわけにはいかないし。あー、もう、とやけくそだった。
「分かった! いいよ! カーテンはちゃんと洗うから!」
「ありがとうございます! 次こそはちゃんと仕留めるんで!」
 眉をキリッと上げた工くんは、やはり、及び腰でゆっくりカーテンへと近づいて行く。そして、敵を目の前にして、ふぅー、と長い息を吐くと、丸めた雑誌をカーテンへと振り下ろした。
「うわぁぁっ」
「いやぁあぁっ!」
 悲劇は繰り返された。
 もう、ほんと、泣く。本当に泣くから。
 頭を抱えて避難した私は、また私を襲ってきた敵の所在地を確認する。敵は、私が先程まで立っていた場所の後ろの壁で、触覚を動かしていた。
 この調子じゃあいつまで経ってもやっつけられる気がしない。そう思った時だった。
「もう埒があきません。俺、コンビニ行って殺虫剤買ってきます!」
 手にしていた雑誌を机に置いた工くんは、着ていた色違いのお揃いのパジャマを脱ぎ、畳んで床に置いていたTシャツとハーパンを拾って着替える。
「え、私も行く!」
 私も慌てて、パジャマのボタンを外すと、ナマエさんは残っててください! と残酷な言葉を突きつけられた。
「コイツを監視しておかないと、見失っちゃうじゃないですか」
「じゃあ、私が殺虫剤買いに行く!」
「ダメですよ! こんなに夜遅いのに、ナマエさん一人で行かせられません!」
「やだ……家にいるより、外の方が安全だもん」
 一人っきりで敵と対峙するなんて、無理。絶対に無理。
 首を横に振ると、工くんの両手が私の肩に伸びる。大きな手でがっしりと肩を掴まれ、真っ直ぐに私を見る瞳に映された。
「何馬鹿なことを言ってるんですか。もしナマエさんの身に何かあったら俺は後悔しても後悔しきれません」
「工くん……」
「ナマエさん……」
 揃った前髪の下で力強く上げられていた眉は、ふっと下され、真剣に私を見ていた瞳は、愛おしいものを見るように細められた。分かった。分かったよ、工くん。
「走って買ってきてね!」
「分かりました!」
 工くんは威勢よく返事をするなり、宣言通り走って廊下へ向かった。遠くで扉の閉まる音が聞こえる。私は、一人。両手を握りながら、壁に佇む茶色い物体を眺めていた。
 永遠にも感じたその時間は、玄関からガチャリと聞こえてきた希望の音で終わりを告げた。
「お帰り! 殺虫剤あった!?」
 廊下から、息を切らせた工くんが顔を出し、何も掴んでいない工くんの手を見て絶望する。ゼーハー呼吸する合間に、すみませんでした、と辛うじて聞こえた。
「嘘……」
 もう、こんな夜も深い時間だ。コンビニで手に入らなければ、殺虫剤は今宵の内は手に入らない。終わった。完全に、終わった。きっと、寝ている間に、敵は姿を眩まし、これから私たちはこの茶色い存在と密かに同居生活を始めることとなる。頭がクラクラとしてきた中、再び荒い呼吸の合間から言葉が聞こえてきた。
「財布……忘れました……殺虫剤は……コンビニ……売ってました……」
 はい?
「バカ!」
「すみませんっ!」
 この後、財布を持ってもう一度コンビニへ一走りしてきてくれた工くんのお陰で、我が家には平和が訪れました。

「いっぱい頑張ってくれていたのに、バカっていっぱい言ってごめんね」
 冷静になると、頭も落ち着いてくる。一生懸命頑張ってくれていた工くんに自分はなんて酷いことを言っていたのだと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「いえ、俺が不甲斐ないばかりにナマエさんに沢山怖い思いをさせてしまいすみませんでした」
 工くんはパジャマに着替える。お揃いのパジャマ。工くんは淡いブルー。私は淡いピンク。
 広い背中を抱きしめると、前から抱きしめて、と言われ、正面に回ると、好きです、とぎゅっときつく抱きしめらた。工くんの腕の力が抜けると同時に上を向くと、チュッと触れるだけのキスをされる。お休みのキスだ。
 そして、二人で寝室に向かい、安心した気持ちで私たちは今日一日を終えるのであった。