隣で鼻を啜る音が続いて、どうしたのかな? と工くんの方を見ると、工くんの頬には大粒の涙が伝っていた。
「え、大丈夫……?」
「大丈夫です!」
 いつもの元気な返事が返ってきたけど、その後すぐに、うぅっ、と呻き声が聞こえてくる。可哀想だ。細められた目も真っ赤に充血してしまっている。
 ごめん。本当に、ごめん。私がこんなことを工くんにさせてしまって。
「のいて、私がやってあげるから」
「いえ、俺がやります!」
「でも工くんこんなに泣いてるじゃん。私がやってあげるから、のいて」
 危ないから工くんに触れることができず、ひたすらお願いすることしかできないのに、工くんは頑なに動こうとしない。
「いえ、俺がやります! ナマエさんだって辛いでしょ。俺の役目なんで俺がやります!」
「いいの、私は慣れているから」
「でも辛いことには変わりないでしょ」
「いいから大丈夫。工くん、鼻水まで垂れてるし」
 何度も鼻を啜る工くんだけど、涙に混ざって鼻水が唇の上まで垂れてしまっている。
「じゃあ鼻水拭いてください! 俺は今手が使えないんで!」
 工くんの要望に私は慌ててリビングからティッシュを一枚取ってきて、半分に折ったそれをこちらを向く工くんの鼻に押し付ける。鼻の穴を片方だけ押さえてあげると、チーンと工くんが勢いよく息を吹きかけ、鼻水を出し切った。出た鼻水を拭き取るようにティッシュを摘んで、もう一度半分におり、正方形になったティッシュを再び工くんの鼻に押し付ける。反対側の鼻の穴を押さえてあげると、工くんは反対の穴からも鼻水を出し切った。
「ありがとうごさいます!」
 鼻がすっきりしたからか、やる気に満ちた鼻息を吐いた工くんは、あっ、と声をあげた。
「ナマエさんまで目が赤くなってる!」
 そりゃ、こんだけ工くんの近くにいたら、私の目までやられちゃうよ。
「危険なのでナマエさんは向こうに行っててください!」
「無理だよ! 工くんがこんなに辛そうにしてるのに、私だけ安全な場所にいるなんてできない!」
「分からずや!」
「工くんの方が分からずやだよ! 私がやるって言ってるのに!」
「だからそれはいいですってば! 俺の役割なんで俺がやるんです!」
 子どものように叫んだ工くんは、視線を前に戻し、作業に戻る。トン、トン、トン。と、規則正しいリズムで扉をノックするような音が鳴る。あと、ちょっとだよ、と固唾を飲み、呻き声をあげ涙を流す工くんの作業が終わるのを見守った。
 包丁を置いた工くんは、安心した様子で、はぁー、と息を漏らし、肩を落とす。
「ありがとうっ……工くんっ」
 一生懸命頑張ってくれた工くんを横からぎゅっと抱きしめた。
「工くんが微塵切りしてくれたお陰で、玉ねぎをカレーに入れられる」
「はい! やりましたっ……俺っ……」
 未だ、ボロボロ涙をこぼしながら工くんが達成感に満ちた様子で言った。
 たまに、こんな風にすごい目がやられる玉ねぎってあるよね。本当に辛かったよね。ありがとう、工くん。
「なんで今日は微塵切りなんですか? いつもカレーの時は縦に太く切ってません?」
 腕の中で力なく工くんが尋ねるので、思わず、にっしっしっー、と女らしからぬ笑いが漏れてしまった。
「今日はねー、インドカレーにする予定なの」
「え、うまそう……」
「スパイスで作るインドカレーの本買っちゃったんだー」
 工くんから離れた私はダイニングテーブルに広げていた本を閉じ、表紙を工くんに見せる。
「え、楽しみ……」
「うん、楽しみだね!」
 この後、工くんが頑張って切ってくれた玉ねぎは鍋で飴色になるまで炒められ、スパイスと共に入れたトマト缶の中に溶けていった。