ボストンバックを肩からかけた工くんが、笑顔で行ってきます、と言って背を向け玄関の扉を開いた瞬間。つい、工くんのジャージの裾を掴んでしまった。
「ナマエさん……」
 開いた扉を押さえたまま振り返った工くんは、辛そうに眉を寄せる。
「昨日、怒っちゃってごめんね……」
「いいんです、あれは俺が砂糖の容器に間違えて塩を入れちゃったんで」
「ううん、あんなことで怒るんじゃなかった。今日でお別れなのに……」
 その言葉を口にした瞬間、目頭が熱くなり、視界の下に溜まった涙はすぐに頬を伝った。
「泣かないでくださいよ」
「工くんだって泣いてるじゃん」
「ナマエさんが泣くからです」
 工くんが私の頬を親指で拭うので、私も工くんの頬を滑る涙を同じように親指で拭ってあげた。
「泣かないで、ナマエさん」
「だって寂しいんだもん……」
「俺だって寂しいです」
 切なげに目を細めた工くんの赤くなった鼻からは鼻水が垂れそうになっている。私はエプロンのポケットからポケットティッシュを取り出し、ティッシュを一枚工くんに渡した。
「ほら、鼻水垂れてるから、鼻噛んで」
「はい」
 ティッシュを受け取った工くんは、ラッパのような音を立てて盛大に鼻をかむ。ますます鼻を赤くした工くんから、丸くなったティッシュを受け取り、そろそろ本当にお別れしないと、と決意して、涙は溢れるけど頑張って笑顔を作って工くんを見上げた。
「気をつけて行ってくるんだよ」
「はい!」
 私の作った笑顔に応えるように工くんも笑ってくれる。泣きそうに顔をクシャクシャにしているけれど、眩しいくらいに弾ける笑顔。
 この笑顔をしっかり目に焼き付けて置こう。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「いってきます!」
 私は玄関の扉を押さえながらマンションの廊下を進む工くんの背中を見送る。エレベーターに向かう廊下を曲がる直前で工くんは一度振り返って手を振ってくれたので、それに手を振り返すと、工くんは行ってしまった。
 胸がぎゅっと締め付けられるけど、いつまでも泣いているわけにはいかない。頬に残る涙を拭い、部屋に帰ろうとするが、おはようございます、と押さえていた扉の向こうから声をかけられ、びくりと震えた体は固まった。
「お、おはようございます」
 支えた扉の向こうでは、お隣に住む奥さんが大きなゴミ袋を抱えて立っていた。子どもは独り立ちしたと言う彼女は、夫婦だけで隣に住んでいらっしゃるとのこと。
 もしかしたら、扉を開いたまま喋っていた私たちのせいで奥さんは通れないでいたのかな。
 慌てて謝ろうとすると、朗らかな笑顔を浮かべられる。
「新婚さんは仲良しでいいですね」
「お、お恥ずかしいです」
 さっきの会話聞かれていたんだ!
 そう思うと、顔に熱が集中していく。それに、やっぱりさっきからずっと奥さんの邪魔をしてしまっていたのだと、申し訳なく思った。
 奥さんに、通行の妨げになっていたようですみませんでした、と謝ると、いいのよ、と優しく返される。
「旦那さんはまた遠征なんですか?」
「はい」
 奥さんの問いかけに、工くんが今晩いないことを思い出し、また目の前が霞んでいった。
 いけない、いけない。人前でみっともない。
 波立つ心を落ち着かせようと、一度小さく深呼吸をする。
「今回の遠征はいつまでなんですか?」
「明日の夜までです」
「え?」
「だから、明日の夜まで……」
 キョトンとした奥さんに顔を覗かれる。どうして、こんな不思議そうな顔をされているんだろう。
「五色さんの旦那さんって毎週末、試合で出かけられてますよね」
「はい……」
「もしかして、週末の度にさっきの会話されてるの?」
「はい……夫が不在になるこの瞬間にはなかなか慣れなくて……」
 毎週、毎週。辛いのだ。笑いの絶えないこの部屋がしんと静まりかえる工くんのいない週末が。
 笑って取り繕ってみたものの、また、今日は夜を一人で過ごさなければならないのだということを思い出し、鼻がむずむずし出すと、奥さんに柔らかに微笑みかけられた。
「お若いって素敵ですね」
「いえ、お恥ずかしいばかりです……」
「そんなことありませんよ。私は五色さん夫婦には今のままでいて欲しいです」
 温かな笑顔を浮かべそう言った彼女は、一礼して、ゴミ袋を持ってエレベーターの方へと向かう。奥さんを見送って部屋に戻った私は、冷蔵庫のブーンという音しか聞こえなくなってしまった部屋で、耳の奥に残る工くんの笑い声にまた泣きそうになったけど、洗い物の続きに取り掛かった。

 寂しい一日をようやく終えることができたその夜。
「ナマエさんの方から切ってくださいよ」
「工くんの方から切ってよ。普段工くんと一緒にいる部屋に一人残されている私の方が寂しいんだから」
 一人で眠るには広すぎるベッドに転がりながらスマホを両手で持ち、頬を膨らませると、鏡のようにスマホの中で工くんが頬を膨らませた。
「見知らぬ土地に一人でいる俺の方が寂しいです!」
「そっちはチームメートがいるじゃん!」
「ホテルでは一人です!」
 毎回、スマホの画面越しに行われるこの攻防。結局、今日も通話状態にしたまま寝落ちすることになるんだろうな。
 赤いボタンを押すことがこんなにも辛いことだなんて工くんと出会うまで知らなかった。
「早く帰ってきてね」
「当たり前です」
 愛おしそうに微笑む工くんを眺めていると、睡魔が押し寄せてくる。
「眠たかったら寝てもいいですよ」
「工くんこそ明日も試合あるんだから早く寝ないと」
 私が言い終えると、お互い同じタイミングであくびを始め、私はそのまま目を閉じてしまう。いつもよりひんやりとするベッドだけど、今日も穏やかな気持ちで瞼を閉じることができたのは、きっと、目に見えない波を通して工くんの体温を感じることができたからだ。
 今日眠れば明日は工くんに会える。
「好きだよ、工くん……」
 船に揺られるような心地の中呟くと、遠いどこかから、いつも聞く、愛の言葉が聞こえた気がした。