普段は仲良く過ごしている私たちでも喧嘩をすることはある。大抵の場合は、どちらが悪いとはいいきれない些細なことがきっかけだ。普段であれば笑って流しているところを、たまたま虫の居所が悪かったのか、声を荒げてしまい、そういう時に限って、相手に反発されるから、さらに声を荒げ、だんだんイライラしてきた挙句に、昔もこういうことあったよね、と言い出したら止まらない。そういえば、と口火を切って、今まで笑って流してきたことをわざわざ思い出しては、あれは許されざる大罪だったと言うような口振りで相手を非難し始めるのだ。なんで喧嘩していたかよりも、お腹の底で湧き立つ衝動を消化させることが優先で、ありったけの油を注いで自分の感情も相手の心も燃やし尽くしてしまうのだった。
 カチャカチャと箸や食器のぶつかり合う音がいつもより響いて聞こえる。工くんと向かい合って座っているにも関わらず、私たちはお互い目を合わすこともなく、夜の食事を黙々と続けていた。おかずはカレイの煮付けだったのに、いつもだったら、一口食べるなりすぐに発せられる美味しいです、が今日は聞こえてこない。
 お昼頃からずっとこんな調子だ。目の前にいるお互いのことをまるで見えていないかのように振る舞うのだ。
 せっかく休みの日だというのにこのまま一日を終えてしまうのだろうか。
 静かすぎる食卓で、ご飯を噛み締めていると、鼻の奥がツンとしてくる。でも私から謝る気はサラサラなかった。私は悪くないのだから。――多分。
 多分、と言ってしまうのは、何がきっかけでこんなことになったのか、もう分からなくなってしまっていたからだ。それほど、言い争ったし、言い争ってから時間が経っていた。
 ご飯を食べる機械になったような気分で、箸でお茶碗からご飯を掬い、口に入れる。すると、椅子が引かれる音。工くんはもう食事を終えたらしく、使った食器を重ねて、シンクへ持っていく。私はまだ半分くらい食事が残っていた。
 いつもだったら、同時に食べ終わるのに。いつもは工くんが私に食べるペースを合わせてくれていたのだろうか。
 そう思うと胸の奥が苦しくなった。
 ご飯を食べる機械を黙って続けていると、工くんは自分が使った食器を洗い始める。水の音に混じって聞こえてくる食器のぶつかり合う音が何かを抗議しているような音のように聞こえて耳が痛い。
 我が家では工くんが食器洗い係で、普段は私の分の食器も一緒に洗ってくれており、その間に私がお風呂掃除をしていた。だけど、今日は何を急いでいるのか、私が食事を終えるまでに、工くんはさっさと自分の分の食器だけを洗ってお風呂掃除も済まして、湯船にお湯まで張っていた。私が食事を終えようとする頃には、ツンとした態度で下着やバスタオルを持ってお風呂へ向かっていく。
 何、その態度。
 なんだか意地悪をされているような気分になり、再び、お腹の底が炙られ始める。だけど、ふと心配になった。
 工くん、入浴剤の場所分かるかな?
 いつもは私が入れてあげているのだ。今日からラベンダーの入浴剤だよ、とか言いながら。そしたら、工くんが後ろから抱きついてきて、たまには一緒に入りましょうよって甘えた声で言ってくるから、一人の方がゆっくりできて良くない? と返しながらも、しょっちゅうの頻度で一緒に入っていた。
 今日は、当然のことながら、一緒に入ることはないのだろう。もしかしたら、これから先も一生、一緒に入ることはないのかもしれない。そう思うと、お腹の底でぐらっと煮えかけたものはしゅんと勢いを失った。
 しばらくすると、工くんがお風呂から出てきたので、私もお風呂に向かう。浴室を覗くと、湯船に張られたお湯は透明のままだった。工くんは入浴剤のことを忘れていたのだろうか。それとも、入浴剤がどこに置いてあるのか分からなかったのだろうか。何を思いながらこの透明なお湯に入ったんだろう。
 色のないお湯を眺めていると、切なくなり、泣きそうになってしまう。私も透明なお湯に入った。
 このまま、離婚ってことになったらどうしよう。
 お湯の下でゆらゆら揺れる伸ばした足をぼんやりと眺めた。
 お風呂から上がってリビングに入ると、仁王立ちした工くんがじっとり睨んできた。ぎくっと体が強張る。
 なんで、睨んでくるの?
 今までも喧嘩をしたことはあったし、顔を背けられたこともあった。でも、工くんがそんな顔を私に向けてくることなんて殆どなかった。頭の中で、離婚、という二文字が鮮明になる。それなのに、そんな顔しても私から謝らないんだからね、と未だに思ってしまう。ぷい、と顔を背けようとしたのだけど、工くんの下ろされていた手に握られているものが目に入り、思わずそれを凝視した。武器を握るように力強く握られたその手には耳かきがあったのだ。
 なんで、耳かき? と首を捻って、そういえば、今日、耳かきしてあげるって約束してたんだっけ、と思い出す。工くん、耳かきして欲しいのかな。
 ちょっと笑いそうになってしまった。
 さっきまで胸をずっしりと塞いでいた気持ちも吹き飛んだ。
 でも、ちゃんと言ってくれないと、やってあげないもん。
 ちょっと意地悪かもしれないけど、何も気づいていないふりをして、ダイニングテーブルでスキンケアをする。その間もずっと工くんの視線が横から刺さってきてくすぐったい。でも、知らないもん、と思いながら、キッチンに向かう。明日の朝食のためにお米を洗おうと思ったのだ。すると、難しい顔で仁王立ちをしたままの工くんがキッチンに向かう私に合わせて首を振って顔だけで私を追っかけてくる。お米を洗っている間も工くんの視線がツンツン、ツンツン、私の体をつついてきて、洗ったお米が入った内釜を炊飯器に持っていこうとすれば、また工くんが首を振って顔だけで私を追っかけてくる。無言なのに饒舌過ぎる工くんの態度に、炊飯器に内釜をセットすると、もう、耐えられなくなり、吹き出してしまった。
「あの、ナマエ――」
「ぷっ……」
 私の吹き出す声と工くんの声が重なってしまった。そのせいか、工くんは続きを言いそびれたようだった。私が工くんを見ると、工くんはわかりやすく視線を絶った。
 いいの? 工くん。言ってくれないと、私また知らんぷりするよ。
 そう思いながら、じっと工くんを見つめていたら、そろりと目線を戻した工くんだったけど、私と目があった瞬間にまた顔を背けた。もう、しょうがないんだから。
 私はテレビの前にあるラグに向かった。また工くんが首を振って顔だけで追っかけてくる。ラグに正座で座ると、工くんに手招きをした。工くんは顔に作っていた皺を一瞬深めたけど、そそくさと私の膝の上に転がり横を向く。そして、唇を突き出しながらごにょごにょと言った。
「今日約束してたから……」
「そうだね。約束してたね」
 工くんが、ん、と無愛想に耳かきを渡してきたので、それを受け取ると同時に、目の前にあるティッシュを一枚抜き取り、工くんの耳の中を覗いた。定期的に綺麗にしてあげているから、目立った汚れはそんなにない。チリのようなものに向かって耳かきをそっと入れたら、拳を握った工くんの体が強張ったのが分かった。可愛いなぁ。そういえば、なんで喧嘩してたんだっけ。
 ふ、と前を向くと、テレビの後ろに隠すように置かれた白いレジ袋が目に入った。袋からはスナック菓子が覗いている。あんなところに、あんなもの、置いていなかった。工くんが置いたのかな。なんで? と考えて、お風呂に入っている時に、玄関から人が出入りするような物音が二回聞こえてきたことを思い出す。物音は気のせいだと思っていたのだけど、もしかしたら、工くんがこの部屋を出て、帰ってきた音だったのかもしれない。きっと、コンビニへ行って、テレビの後ろに隠してあるものを買いに行ったのだ。喧嘩の原因はそれだった。
 お昼ご飯を食べた後、映画を見ようとして、私がスナック菓子を持ち寄ったのだ。工くんも食べよ、と言ったのだけど、工くんは、俺は映画を見てる間は飲食しない派なので、と言って手のひらを向けてきた。
「へー、そうだったんだぁ」
 そう返しつつも、昔映画館でデートした時、ポップコーン食べてなかったっけ? と思い出しながら、スナック菓子を開けようとした。だけど、これがなかなか開かないのだ。何度か手を滑らせていると、工くんが誇らしげな顔をして、貸してください、と言ってきた。
「だめ。工くんいつも爆発させるから」
 しょうがないから、スナック菓子をラグの上にあるローテーブルに置いて、キッチンへハサミを取りに行こうと立ち上がる。その瞬間だった。背中で小さな破裂音がする。振り返れば、工くんがキョトンとした顔でスナック菓子を爆発させていた。私と目が合うと、申し訳なさそうに項垂れ、今回はいけると思ったんです、なんて言う。
 いつもであれば、毎回それ言ってるような、と思いながらも笑って一緒に片付けていた。だけど、今日は叫んでしまった。
「毎回それ言ってるじゃん!」
 だって、今朝、掃除機をかけたばっかりだったのだ。綺麗にしたばっかりのラグの上に、スナック菓子をぶちまけられ、ラグの繊維の間にスナック菓子の屑が入り込んでいったのかと思うと頭が痛かった。きっと、この後、工くんが、ごめんなさい、と一言言ってくれれば、私の気も収まっただろう。でも今日に限って、工くんは、不貞腐れた顔をして全然違う言葉を吐いた。
「でも、このスナック菓子でするのは初めてですよ」
「そういう問題じゃないでしょ! 工くんはいっつもそうだよ! できないことをできるって言っていっつも失敗するの!」
「いつもじゃないですよ! ちゃんと成功してる時もあります! それにやる前からできないって言ってたら一生できないままじゃないですか!」
「だからそういう話をしてるんじゃないの!」
 ここから泥試合が始まった。さっきのさっきまで忘れていたことをわざわざ思い出しては、あの時もあんな風に失敗したよね、あれ片付けるのすごい大変だったんだよ、とか、あの時はナマエさんだって大丈夫って言ってくれてたじゃないですか、とか、でもあの時だってあんなこと言ってあぁなっちゃったよね、とか。散々言い争いをして、気がついたら、お互いそっぽを向いており、冷戦に突入していた。
 工くんの耳の中が綺麗になったので、反対向いて、と工くんの肩を叩く。すると、工くんは反対を向かずに起き上がった。どうしたの? と聞く前にコアラのように私にひしと、しがみつく。
「今日はごめんなさい……」
 弱々しく発せられた言葉に目の縁が熱くなる。大きなコアラの丸まった背中をポンポンと叩いてあげた。
「いいよ。私も怒りすぎてごめんね」
 たったこの一言だけで、仲直りができるのに、その言葉も言えず、離婚なんて最悪な事態を考えてしまうのは不思議だなぁ、とぼんやり思った。
 耳掃除が終わると、工くんはテレビの後ろから、例のものを取り出してきた。
「これ、今日ダメにしてしまったのです……本当にごめんなさい……」
 もしかしたら、工くんがいそいそと食器を洗ってお風呂に入ってとしていたのは、早くコンビニへ行き、こっそりとスナック菓子を準備したかったからなのかもしれない。いつも私にカッコいい姿を見せようと頑張ってくれる工くんのことだから。スナック菓子を開けようとしたのだって、上手に開けてみせて褒めて欲しかったのだろう。
 前髪を垂れ下げながら謝ってくる工くんが愛おしくて、工くんからの贈り物を受け取る前にその頭を撫でてあげた。
「いいよ。今度は一緒に食べようね」
「いえ……俺は映画を見る時は飲食しない派なので……」
「でも、昔、映画館でポップコーン食べてたよ」
「あれはっ! 違うんです! あの頃の俺はもういないんです!」
「そうなの? なんで?」
「牛島さんがっ……! あ、いえ、なんでもないです」
 牛島くんは映画を見る時に飲食しない派なのかな? と思いながら、頭をヨシヨシし続ける。おずおずと私を見上げる工くんと目が合うと、なんだか頬が緩んでいき、きっと、私が笑うのと同時に工くんも笑った。
 でも、これからはローテーブルの上にハサミを置いておこうと思う。工くんに気づかれないように、対策を打っておくのも夫婦円満の秘訣なのだ。
「次のお休みは今日見れなかった映画見ようね」
「はい!」
 それからは心置きなく、二人並んでソファに座りそれぞれ寝るまでの時間を過ごした。寝る時間になると、いつものようにおやすみのキスをして共にベッドへ向かった。ベッドに行くまでの短い距離を手なんか繋いじゃったりして、私はゴツゴツとした不器用な手を握り締めながら、今日も平和に一日を終えることができて本当に良かったと心の底から思うのだった。