うちは米派だ。
 工くんと結婚して新居に引っ越してきた時に、お米しかなくて、工くんに、朝ごはんはお米でいい? と聞き、いいですよ、と返され、成り行きで米派になった。でも、工くんのご実家も米派らしいから、これでよかったと思っている。
 忙しい朝にお米を炊くのは大変なので、いつも、前の晩からお米を洗って、炊飯器に設置し、朝起きる頃に炊けるようにしている。それは私の仕事で、お風呂から上がって寝るまでの間にその一連の作業をしていた。今日も、お風呂から上がり、ぽかぽかした体で、炊飯器の内釜にお米を二合入れ、シンクでお米を洗う。
 季節は冬。水道から出てくる水は針のように鋭い冷たさを持っていた。暖房で温かいお部屋にいるとはいえど、何度か水に浸されたお米をかき混ぜていると、手が悴んでくる。
「うぅ、冷たいよー」
 独りごちた。
 感覚が麻痺してきた手をぎゅっと握りながら、研いだお米が入っている内釜に水を注ぐ。水はまだ随分と白く濁っていた。あと、一回くらい研がないとダメかなぁ、と水を捨て、お米をシャカシャカかき混ぜる。
「うぅ、冷たいよー」
「大丈夫ですか?」
 先程までソファーでバレー雑誌を読んでいた工くんが隣に立っていた。心配そうな顔で私を覗いている。
「大丈夫だよ」
 工くんに笑いかけて、内釜に水を入れる。また、冷たい水にぽちゃんと手を入れて内釜の中を軽くかき混ぜた。すると、その水はほとんど濁っていなかった。これなら、もうお米を研がなくても大丈夫だろう。再び、水を捨て、次に水を入れると、案の定、水は澄んでいたので、そのまま水を二合のところまで入れ、内釜を炊飯器に設置する。そして、明日の起きる時間にタイマーを合わせ、炊飯ボタンを押した。これで、明日の朝にはちゃんと炊き立てが食べられるだろう。
「ナマエさんの手、真っ赤ですね」
 工くんは両手で私の手を包み込んだ。
「すごい冷たいじゃないですか! 毎晩こんなに冷たくなってたんですか!?」
「冬の間だけだよ」
「え……ナマエさん、冬に入ってからずっとこんなに手を冷たくして辛い思いをしてたの?」
 なんだか、話が大きくなっている気がする。悲しそうに眉根を寄せた工くんは、両手を使い労わるように私の手を温め始めた。時折、自分の頬に私の手を当てて、本当に冷たいです、とこぼしながら。
 私は、手がじんわりと温まっていくのを感じながら、大丈夫だよ、と笑ったけど、工くんは私の手を握ったまま力なく項垂れた。
「すみません……俺、何も知らないで毎朝呑気に米を食ってました……」
「本当に大丈夫だよ! 冷たいのにはもう慣れたから!」
「こんなことに慣れないでください! 俺もう米いりませんから!」
「え?」
「あなたにこんなに辛い思いをさせてまで米を食いたいなんて思わないです! だから、もう米はいりません!」
 大袈裟だよぉ、と笑ってみたものの、工くんがお米は絶対に食べないモードに入ってしまったため、うちはパン派になりました。

 ある休日のこと。スーパーで白菜が安かった。
「今日の晩ご飯は鍋にしよっか」
「そうですね! 最近寒い日が続いてますし!」
 隣でカートを押してくれていた工くんが笑顔でそう返してくれたため、白菜や春菊やおネギ、お豆腐やお揚げ、お肉やお魚を買って帰宅した。
 工くんがリビングテーブルでカセットコンロやガスなどを準備してくれている間に、白菜を一枚一枚むいて洗い桶に入れていく。工くんと私が食べる量くらいまで白菜をむいたら、洗い桶に水を入れた。そこに手を突っ込んで、水を叩きながら、じゃぶじゃぶ白菜を泳がせ、汚れを落としていく。やはり暫くすると、冬の水は指先を刺してきた。
「うぅ、」
 冷たい、と言いかけて、慌てて口をつぐんだ。リビングテーブルでカセットコンロにガスを設置しようとしていた工くんがピタリと動きを止めて、鋭い視線を向けてきたからだ。このまま、冷たい、と言ってしまうと、工くんはこの間のお米事件の時のように、野菜まで食べないと言い出しかねないような怖い顔をしていた。夕食が野菜なし鍋になるのを防ぐため、黙って白菜をじゃぶじゃぶする。すると、工くんが、持っていたガスをガスコンロに設置することなく、テーブルの上に置いて私の隣にやってきた。私の横から水を叩いている私の手をじぃっと見つめてくる。無言の空間で、白菜をじゃぶじゃぶする音だけが鳴っていた。
「手、冷たくないですか?」
 ほら、きた。工くんは私の手のことを心配してくれているのだ。ここで、冷たい、と言ってしまえば、夕食は野菜なし鍋になってしまう。そんなの栄養偏っちゃうし、鍋に野菜が入っていなかったらそれはもう鍋じゃない気がする。大丈夫だよ、ということを伝えたくて、さっきよりも大きな音を立てて白菜をじゃぶじゃぶしながら、笑顔を作った。
「冷たくない! 全然冷たくないよ!」
「本当ですか?」
「本当! 本当!」
 そう言っているのに、工くんはまだじっとりとした視線を寄越してくるので、指先は凍りそうなのに頬には変な汗がだらだらと伝う。こんなにもプレッシャーを感じながら白菜を洗うのは初めてだ。
 工くんは納得してくれただろうか。
 そう思いながら派手に水音を響かせて白菜を洗い桶の中で揺らしていると、工くんは声を張り上げた。
「俺もう野菜なんて――」
「だから冷たくないってば!」
 すかさず突っ込んだ。やっぱり工くんは納得していなかったらしい。工くんはまた大きな声で言った。
「そんなの嘘ですよ! だってナマエさんの手、真っ赤じゃないですか!」
「元々こんな色だよ!」
「そんなわけないでしょ! 俺ナマエさんのことちゃんと見てるんですからね! ナマエさんがいつもと違ってたらすぐ気づきますよ!」
 でも、この間、私が前髪を切った時は、何か雰囲気変わりました? とか言って、なかなか前髪を切ったことに気づかなかったような、と思っていたら、工くんは冷水に浸けていた私の手を掴んだ。
「やだ! 離して!」
「ほら! すごい、手冷たいじゃないですか! あなたにこんな辛い思いをさせてまで野菜を食べたいなんて思いませんよ!」
「だから大袈裟だよ! そんなに辛い思いしてないから! それに、そんなこと言ってたら何も食べられなくなっちゃうよ!」
 工くんは、体が資本のお仕事してるんでしょ! そうやって食生活偏ったらダメだよ! 冷たいのは冬だけなんだし、野菜を洗うのも一瞬のことなんだし、それなのにこんなことで野菜を食べないなんて決めちゃダメだよ!
 なんてことを散々言い争った結果。
「じゃあ、俺が野菜を洗います! あなたに辛い思いなんてさせられません!」と、決着がついた。
 だから、そんなに辛い思いしてないんだってば、と言ったけど、私の手がこんなに冷たいのに辛い思いをしていないわけがない、と言って聞かない工くんが絶対野菜は俺が洗うモードになってしまったため、そうなった。
「うぅ、冷たいです……」
 私が白菜を切っている隣で、工くんは背中を丸めながら春菊を洗い桶で洗っていた。
「手伝おうか?」
「いえ! 俺からやるって言い出したことなので!」
「でも、二人でやったら、冷たい時間は少なくて済むし、辛いことを分け合うのが夫婦でしょ?」
 工くんはうるりと瞳を潤ませる。
「俺、ナマエさんと結婚して良かったです……」
 だから大袈裟だよ、と返しつつも、こんなにも私を大切にしてくれる旦那さんを隣にして、私も工くんと結婚して良かったな、と思うのだった。
 結局、私たちは狭いシンクで二人肩を並べて春菊やネギを洗い、無事に野菜入り鍋を食べることができました。