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 少し時間を遡り、それは五色が高校に入学して、一ヶ月が経った頃のことだった。
 休憩時間に、五色のもとに隣のクラスのバレー部が教科書を借りにきており、教室の扉のところで彼にそれを渡していると、両手に沢山のノートを抱えた女子生徒が歩いてきた。ミョウジさんだ。
 一ヶ月も経てば、クラスメートの名前と顔は一致してくる。その子が、どこに住んでいるのかとか、どんな音楽を聴くのかとか、そういう細かいところまでは知らないが、朝に会えば挨拶をする程度にはみんなと仲良くなっており、ミョウジさんもその一人だった。
 ミョウジさんは危なげなく歩いてくるが、五色の前を通過した瞬間、誰がこんなところにこんなものを置いたのか、ミョウジさんが踏もうとしていた床にちょうど鉛筆が転がっており、ミョウジさんは鉛筆を踏むと同時に足を滑らせ、体を後ろに投げ出してしまう。彼女の腕の中に収まっていたノートたちも後ろに向かって弧を描き、バサバサ落ちていった。だけど、教室にいたみんなが覚悟しただろう女子生徒が体を床に打ち付ける音は聞こえてこなかった。ミョウジさんは五色の腕に背中を支えられていたからだ。
 その光景がクラスメートにはお伽話の一ページのように見えた。少女が王子様と運命的な出会いを果たしたのだ。
 王子様は少女を腕に抱えたまま尋ねる。
「大丈夫か?」
「あ、う、うんっ、大丈夫っ!」
 少女が真っ赤になりながら答えると、シンとしていたクラスは大いに盛り上がった。五色もミョウジさんもビクッと震える。
「五色かっけー」
「やるなー」
「見てるこっちがドキッとしたぞー」
「うるさいなっ! それより誰だよ! こんなところに鉛筆落としたやつ!」
 五色は熟れたトマトのような顔で叫びながらミョウジさんと一緒に、床に落ちたノートを集めていく。
 結局、鉛筆を落とした犯人を見つけることはできなかったが、ノートは無事に集め終えた。
 ミョウジさんはまたこんもりと両手にノートを抱える。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
 ふわっと笑う彼女の笑顔は幼気で、まるで道端に咲くたんぽぽのようだった。
 ミョウジさんとはそれっきりだ。もしかしたら、その後何かの授業で一緒にグループワークをしたかもしれないが、それももしかしたらというくらいの印象に残るものでもなかった。
 それなのに、どうしてこんなことになっているのだろうか。
 一学期の終業式を終え、夏休みが始まろうとしていた時のことだった。
 部活が始まる前に、ミョウジさんに呼び出されたのだ。一緒に校舎裏に行くと、あろうことか、好きです、と告白をされたのだった。
 頬に茜を差したミョウジさんは様子を伺うように上目で五色を見上げている。
 そんな顔をされても、相手の様子が分からないのは五色も一緒だった。
「え、あ……なに?」
「そうだよね、ごめんね。いきなりすぎたよね」
 ミョウジさんは苦笑したが、両手でスカートをぎゅっと握ると、高い塔におわす王子様に身分違いの娘が懇願するように言った。
「でも、五色くんが好きなの。だから……付き合ってください……」
 似たようなことを二度言われ、ようやく事情を理解できたが、どうして、自分がこの女子生徒に好意を寄せられているのか、いまいち分からなかったため、戸惑った。しかし、彼女は本気で五色を好きなようで、今も健気に震えながら五色を見上げ、五色の返事を待っている。
 そんな無防備な彼女を見ていると、なぜこの女子生徒は自分を好きなのか分からないままだったが、さほど気にならなくなった。五色もどうしてあの人が好きなのか分からない。あの人――部活のマネージャーでしかないあの人と特別な何かがあったわけではなかったけど、気が付いたら彼女を目で追うようになっており、彼女を見ると胸が苦しくなるようになっていた。この気持ちはなんなのだろうか。ふと夜空を見上げ、胸のシャツを握りしめたこともあった。そして、この気持ちが好きと言う感情なのか、と気づいた時には、光の集まりでしかなかったただの星空がなんと美しく見えたことか。たったそれだけのことを伝えに、彼女の元へ走り出したくなった。
 きっと、好きというのはそういうものなのだろう。なぜといったことはさほど重要ではないのだ。ただ好きだという気持ちだけが強烈に植え付けられ、居ても立っても居られなくなり、例え馬鹿のようなことでも平気でできてしまうような、そういう厄介な代物なのだ。
 そういうわけで、五色は人を好きになるという気持ちは重々心得ていたが、他に好きな人がおり、このまま目の前の女子生徒の告白を受けるわけにはいかなかった。
「ごめん」
 そう言うと、ミョウジさんの瞳が揺れるのが見え、ズキッと胸の奥深くが痛んだ。誰かの告白を断るのは初めてで、こんなにも苦しいことだったなんて知らなかったのだ。でも、五色の心にはあの人が強く住んでおり、ちょっとやそっと息ができなくなっても、あの人を忘れることなんてできなかった。
「俺、好きな人がいるから」
 この言葉がさらに彼女を傷つけると分かっていながらも、適当にこの場をやり過ごす術など知らず、心がぎしぎしと軋むのを感じながらその言葉を口にした。彼女に泣かれることも覚悟した。しかし、どうしてか、ミョウジさんは安心したような顔をした。
「分かったよ。ありがとう」
「なんで、礼を言うんだよ」
「なんでだろうね……」
 そうやって悲しそうに笑われ、泣かれるよりもずっと心を抉られたような気がした。
 ミョウジさんが小さな背中を丸めとぼとぼ歩いていく。その姿を見送り、部活へ向かった。
 昇降口を経由し、下駄箱でローファーに履き替えるのだが、その時になんとなくミョウジさんの下駄箱を覗いた。まだ、ローファーが残っているので、彼女はあの後帰宅したわけではなかったらしい。ふと彼女の名前シールが目に入る。ミョウジさんってナマエって名前なんだ。下の名前を知ると、少し親しみが湧いた。
 でも、もうナマエには口を聞いてもらえないのだろう。五色が振ってしまったのだから。少し寂しいけど、振った後もこれまで通り、良きクラスメートでいてくれなんて言う図々しいやつにはなれなかった。
 ローファーに履き替え、部室に向かって走る。今日も一番乗りで体育館へ行くのだ。そして、あの背中にお疲れ様です! と挨拶をするのだ。五色の日常はこれからもきっと変わらない。