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 その日は、天候に恵まれ、澄み切った秋空が天高く広がっていた。
 校門をくぐった先の紅葉が美しい道には、催し物を伝える色鮮やかな立て看板が並び、さらに進んだところでは、出店が連なっている。わたあめ、甘酒、クレープ。高校生らしく簡素なものが多いが、学生だけでなく、子ども連れや年配夫婦など一般の人も一緒に賑わっていた。流石は伝統ある白鳥沢学園と言った様子で、イベントがあればこうして近所から人が集まるのだ。校舎に入れば、文化部の展示やクラスの出し物である縁日、お化け屋敷などと楽しめる。その文化祭は、金曜、土曜、と二日に渡って行われ、今日はその二日目だった。
「本当にごめんね……」
 ナマエが項垂れ、五色は既視感を覚えた。
「本当は違う子と脅かす筈だったのに……私がいてびっくりしたよね……」
 交代の時間になり、衣装に着替えに空き教室に来たら、一緒に脅かし役をする筈だった女子生徒ではなく、ナマエが立っていたのだ。ナマエは既に着替えを終えていたようで、黒い三角帽子を被り、魔女になっていた。ナマエに後ろを向いてもらい、そそくさと着替えた五色は、タキシードの上にマントをつけ吸血鬼になった。
 洋風のお化け屋敷だった。
 サテンの生地で作られた衣装は、窓から入ってくる太陽光の下ではツヤツヤと光り安っぽく見えるが、会場である暗闇に入れば、白黒映画で見るようなおどろおどろしいものになるだろう。衣装係自慢の品だった。
「ちゃんと断ったんだけど、私が言っても照れ隠しに聞こえちゃうみたいで。結局衣装押し付けられちゃって……」
「別に俺は……」
 言いかけた言葉の続きが自分でも分からなかった。
 廊下の方から女子たちの楽しそうな笑い声が聞こえてきて、やがて遠ざかって行く。
「血糊つけちゃうね」
 ナマエがボトルから手の甲に毒々しい紅を数滴落とす。人差し指でそれを掬い、躊躇う様子もなく五色の唇に触れ、五色は慌てて後ずさった。
「どうしたの?」
「え、……でも、え?」
 意識してるの俺だけ?
 女子が男子の唇に触れるなんて非日常のように思うのだが、ナマエはそうではないのだろうか。自分ばかりが意識しているのかと思うと、なんだか、恥ずかしくなり、何でもないと言って顔を差し出した。
「つけても大丈夫?」
 ん、と返事をすると、再びナマエの人差し指が伸びてくる。唇に触れられると覚悟したのだが、唇より僅か下にその指は落とされた。さっき、唇に触れられたと思ったのも気のせいだったのかもしれない。変な勘違いをしてしまい、顔が熱くなっていく。飛び出そうとせんばかりにドキドキと鳴る心臓の音がナマエに聞こえてしまわないか心配だ。
 五色は目も唇をキュッと結び息すら止め、ナマエに触れられたところから皮膚が引き締まっていくのを感じながら、顎に向かって指が落とされていくのを待った。
 ナマエの指が離れると、うっすら目を開く。よしっと言ってナマエが離れていくのが見えたので、安心して目を開き、ふぅ、とため込んでいた息を吐いた。
 唇の下から顎にかけて妙な感覚があり、それが血糊の乾いていく感覚なのか、それともナマエが残していった感覚なのか、分からない。
 ナマエは五色に触れていた指をあっさりとテッシュで拭った。そして、またその指を手の甲にある紅に浸すと、手鏡を見ながら何も躊躇う様子もなく今度は自分の口元に滴らせた。再びテッシュで指を拭い、手の甲も拭い、そのテッシュは、空き教室の隅に置いてあったゴミ袋に入れられた。細かく切られた段ボールに混じり、やたら白く浮いて見える。
「行こっか」
「おう」
 ベランダから、暗幕で覆われた教室に入る。中は真っ暗で、誘導するように道に沿って足元だけをオレンジの灯りが照らしていた。客はこの灯りを頼りに進むのだろう。
 普段は机を並べ勉学に勤しむ場所だったが、今や立派なお化け屋敷となっていた。
「そこ真っ直ぐ行って、曲がったところだから」
 そんな風に後ろからナマエに脅かす場所を指示される。確かに、まっすぐ進み左に曲がれる道が、暗闇の中でオレンジ色に浮かんでいた。しかし、それ以外何も見えない。
 とりあえず言われたように、真っすぐ進んでいく。
「あ、そこ気をつけて。こんにゃく釣ってあるから」
「うわぁっ」
 もっと早く言ってくれよ。無防備なおでこにピタリと湿った物体が当たり、変な悲鳴をあげてしまったではないか。
「五色くんが驚いてどうするの」
 後ろでクスクス笑う声が聞こえる。
 笑うなよ。
 そう思いながらおでこをさすっていると、キャァという悲鳴が教室の入り口の方で聞こえた。
「あ、お客さん入ってきた。早く行かないと! 鉢合わせちゃう」
 そう言ったナマエも、次の瞬間、わぁっと声を上げた。
「ごめん……こんにゃくが……」
「ミョウジさんが驚いてどうすんだよ」
 言い返してやった。
 目がだんだん慣れてきたおかげか、振り返れば、むぅ、と頬を膨らませて五色を見上げているナマエの顔が見える。今度こそ、どんぐりを頰に詰めたリスだったので吹き出してしまった。
「そんな顔するなよ」
 ナマエの頭をポンポン撫でてやった。
 すると、また、キャァ。
 その悲鳴はさっきより、近づいてきている。
「早く行かなきゃ」
 ナマエが慌てたように五色を押し、五色は背中を押されながら進んだ。背中の服を小動物のような手が何かを訴えるようにぎゅっと握っている。少し、くすぐったい。でも嫌な気はせず、植物が土の中へ根を伸ばしていくようにゆっくりと背中へ神経が集まっていく。その時ふいに目の前にこんにゃくが現れ、またおでこをやられた。
「うわぁっ」
「何やってんの……」
 呆れたような声が聞こえると同時に背中を離されてしまった。
「わ、悪いかよ! ミョウジさんが押すからだろ!」
「いいから行くよ」
 素っ気ない物言いをされたが、こちらを見上げたナマエが泣いているように笑っており、どうしてか少し胸が痛んだ。そういえば昔もこんな顔を見たことがあった。
『なんでだろうね……』
 その時の彼女はそんなことを言っていたような気がする。
 いつのことだったか。それはもう遥か遠い昔の記憶のようだった。