
学園内の樹木が色づき、秋が深まってきた頃。その日は、日直だったため、学級日誌を担任に提出してから、部活に向かった。いつもより少し遅い時間にロッカールームでジャージに着替え、体育館に向かう。体育館を覗けば、既に部員の殆どは集まっているようだったのだけど、いつもより騒がしい気がした。まるで大道芸人を囲むように、ひとところに部員たちが集まっているのだ。彼らから感心するような声が聞こえてくるかと思えば、冷やかすような声も聞こえてくる。何事だろうかと思い、彼らに近寄ってみれば、部員たちの中心には大道芸人ではなく、五色くんがいた。五色くんは瀬見くんにガッチリと肩を組まれており、小さくなっている。その隣では、天童くんがおかしそうにしていた。その五色くんたち三人を部員の殆どが熱心な様子で囲っていたのだ。
「あれ、何があったの?」
ぎゅうぎゅうになって五色くんたちを囲んでいる人たちに声をかけるのは憚られたので、体育館の壁側に座ってテーピングを巻いていた白布くんに尋ねる。こちらを一瞥し、あぁ、と漏らした白布くんは、視線を手元に戻し、テーピングを巻く手を止めることなく答えた。
「五色に彼女ができたそうです」
「え?」
白布くんは事務的な口調で続ける。
「告白は向こうからだったみたいですよ。五色は断ったらしいんですけど、食い下がられたみたいで。その後色々あって、結局付き合うことになったそうです」
白布くんが言い終えると、辺りは無音になり、賑やかに聞こえてきていた筈の部員たちの声も聞こえなくなった。その代わりに、白布くんの言葉が頭の中で何度も反響していた。
五色に彼女ができたそうです。
断ったらしいんですけど。
付き合うことになったそうです。
ちゃんとそれらの言葉の意味を理解しているのに、お前は理解していないと言うように、何度も何度もそれらは頭の中で重なり合っていた。
白布くんから、人だかりの中心にいる五色くんへと視線を移す。瀬見くんに何か言われたのか、頬や耳も赤くした五色くんは瀬見くんに向かって必死な様子で何か言い、周りにいた部員たちは、わっと湧き上がった。相変わらず音は聞こえないままだったけど、とても、楽しそうだった。
胸がキリキリと痛みだし、唇を噛み締め、痛いくらいに拳を握る。
ふいに、ナマエさん? と白布くんの声が耳に入り、我に帰った。先程まで遠のいていた部員たちの笑い声も蘇る。
「あ……え、なに?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
何に対して、大丈夫か聞かれたのかよく分からなかったけど、白布くんが訝しげに私を見上げていたので、ひとまずそう返しておいた。
白布くんは再び手元に視線を落とすと、人差し指にテーピングを巻き始める。
「いいんですか?」
「何が?」
「今なら間に合うと思いますよ」
「え? 間に合うって? 何の話?」
「何の話って」
テーピングを床に置いた白布くんは優雅な動きで私を見上げた。吸い込まれそうなほど美しい瞳が私を映した。
白布くんの薄い唇が動く。
「ナマエさん、五色のこと好きなんじゃ――」
「待って!」
白布くんを遮ったのは、今、それに気づいてしまったら、いけない気がしたからだ。
五色くんにはもう彼女ができてしまったのだ。
今まで、彼氏がいる分際で余裕ぶりながら五色くんに好かれている先輩を散々楽しんできたのに、五色くんに彼女ができた途端に、五色くんに好きだと言って縋り付くのは虫がいいような気がした。それに、そんなみっともないことをするようなカッコ悪い先輩にはなりたくなかった。
きっと、今、頭をもたげた気持ちに気づかないでいれば、今まで通りいられる筈だ。
大丈夫。大丈夫だ。私にはちゃんと彼氏がいるのだから。
そう何度も自分に言い聞かせ、ドキドキ、とうるさい胸の上に手を置いた。どうか、静まって。そう願いながら、深呼吸をする。
すると、白布くんはテーピングを巻き終えたのか、立ち上がり、いつのまにか練習を始めようとしていた部員たちの元へ歩いていく。一歩、二歩と歩いて、立ち止まり、こちらに振り返った。
「あなたがそれでいいと言うなら俺は何も言いませんけど」
その言葉が鞭のようにピシリと私の胸を打ったような気がした。
日常は変わったようで変わらなかった。
ジャージに着替えて体育館へ向かえば、ナマエさん! お疲れ様です! と後ろから聞こえ、振り向く前に声の主が前を走っていく。その背中は振り返ることなく体育館へと向かって行った。
たまに両手に重たい荷物を持って歩いていれば、手伝います! と急ブレーキをかけて、振り返ってくれる。私の返事を聞く前に、手に持っていた荷物は奪われ、ありがとう、と言えば、いえ! と笑顔が返ってくる。何も変わらなかった。あの日以来、五色くんを見ては胸の奥をキリキリとさせる何かが生まれたこと以外は。
例年通り、あと数日で春高予選が始まろうとしていた。
日を経つごとに練習は緊張感を増し、みんなの瞳は獣のようにギラギラと輝いていく。外を吹く風は徐々に冷たくなっていっているというのに、体育館の熱気は日に日に増していっているようだった。
それはスパイク練習をしていた時のことだった。順番を待っていた五色くんが、ふと一点を見つめると、ガチっと音が聞こえてきそうなくらい目に見えて固まり、揃った前髪が舞い上がりそうな勢いで顔を赤くした。しかし、自分を落ち着かせるように深呼吸をすると、すぐに、いつもの五色くんに戻った。澄ました顔で前を向く。順番が回ってくると、ネット側まで助走し、軽やかに跳んだ先で、弓のように体をしならせ、助走の勢いを乗せるように白布くんが上げたトスを叩いた。ストレート方向にコートを裂いたそれはいつも以上にキレがあるように見えた。ガッツポーズをした五色くんは雄叫びを上げる。
五色くんが固まったさっきのあれはなんだったのだろうか。私は五色くんが固まった時に見ていた方向を見てみた。
体育館の両開きの扉が開かれた、その先。緑のネットの向こう側だ。そこには体育館から漏れ出た光に淡く照らされた女子生徒が一人立っていた。彼女は不安そうに胸の前で手を組み、だけど、包み隠すことなく瞳に熱を孕ませ、ただ一人だけをひたすら真っ直ぐにその瞳で追いかけていた。
あの子だ、と思った。
きっと、あの子が五色くんの彼女なのだ。
無垢に輝く羽のような可愛らしい子だった。
どうしてか、五色くんは仕方なくその子と付き合ったのだと思っていた。白布くんに彼女からの告白を一度断ったと聞いていたからかもしれない。そこに一縷の希望を抱いてしまっていたのだ。そして、思っていた。すぐに別れるだろう、と。
結局、私は胸に抱いてしまった気持ちに蓋をすることができていなかったのだ。
でもよくよく考えてみたら、五色くんがそんな中途半端なことをするわけがない。
ちゃんと、彼女のこと、好きだったんだね。
私の心はとうとうガラスのようにバラバラに粉砕した。
今度こそ、五色くんのことは忘れよう。
大丈夫。大丈夫だ。私にはちゃんと彼氏がいるのだから。
そう言い聞かせていたのだけど、気づいたら彼氏と別れていた。意外にもフラれたのは私の方だった。
「なんで?」
別れよう、と言われてその理由が全くわからなかった。
それは、街灯だけが照らす帰り道でのことだ。私と違って夏に部活を引退した彼は、いつも私の部活が終わるのを待ってくれており、私の部活が終わると、一緒に帰宅していた。
私が立ち止まると、彼も立ち止まる。通行人のいない路地で彼と向き合ったが、顔を背けられた。
「俺以外に好きな人できただろ」
ドキッと胸が歪な音を立てた。拳をぎゅっと握る。
「最初はそれでもいいと思ってた。でも俺を好きじゃないナマエと一緒にいるのが想像以上に辛くてさ。もう、ナマエは俺を見ても笑って駆け寄ってくれないだろ。手を繋いでも握り返してくれない。最近じゃ、話す時に俺の顔すら見てくれてないよな。自分でも女々しいとは思うけど、そういう今までとの違いを見つける度に苦しくなるんだ」
言い終えると、彼は真っ直ぐに私を見た。私は、これから、何を言われるのかわかったような気がして、やめて、言わないで、と口にしようとした。しかし、彼に先に言われてしまった。
「だから、別れよう」
目の縁がじわりと熱くなる。
でも、自業自得じゃないか。彼氏がいながらも、五色くんと一緒にいることに胸を躍らせていたのだ。それに、五色くんに彼女ができたと知った時、自分には彼氏がいるから大丈夫だ、とまるで寂しさを癒す道具のように彼のことを思っていた。こんな酷い自分はフラれて当然だ。でも、この人には何も気づかれていないと思っていた。
私は、どれほどこの人を傷つけたのだろうか。
「ごめん、ごめんね」
「謝るなよ。そのかわり、幸せになってくれ」
頭をぽんぽんと撫でられた。
でも、もう幸せにはなれないんだ。
それは口にできなかった。