春高予選を敗退で終え、その翌日から三年生のいない練習が始まった。二人一組で対人パスをしつつ、体育館を見渡せば、いつもより広く感じた。単純に人数が減ったからというのもあるだろうが、やはりその存在感は大きかったのだろう。少し、心もとなかった。背負うものが一つ増えたこともまた不安な気持ちに拍車をかけていた。
 お前しかいないだろ、と言われ、引き継いだのだ。かつて、牛島が担い、続いて白布が全うしたそれを。
「スパイク練習!」
 いつも以上に声を張り上げた。すると、部員たちが声を合わせて返事をし、自分がこのチームを引っ張るキャプテンになったのだと今さら実感が湧いてきて、腰の付け根から背筋を伸ばさせるような震えがビリビリと上っていった。
 いつものように、部員たちが順番に並び、スパイクを打っていく。ボールが床を叩く音が響き始め、いつもとはリズムが少し違う気がして、落ち着かなかった。しかし、いずれこれが日常となっていくのだろう。次こそはこのチームで必ずあの場所に行く。スパイクを打った五色はストレート方向に空間を割いたそれがエンドラインを踏むのを見届け、片手で小さくガッツポーズを取った。
 牛島たちの代は引退してからも、みんなちょくちょく練習に顔を出していた。卒業後もバレーの道に進むものが多かったからだろう。
 どうやら、白布の代はそうではなかったようで、大学受験に向けて忙しくしているのか、練習に来るものはほとんどいなかった。来たとしても、息抜きといった具合で、川西など数人くらいが体を動かしに来るだけで、医学部を受けるという白布は全く来なかったし、元マネージャーのナマエも顔を出しに来ることはなかった。
 そんな彼らが頻繁に体育館を訪れるようになったのは、三月に入ってからだ。一般入試の合否が出る頃だった。みんなほっとした顔でやってくるのだった。
 ナマエもその一人だった。その日は休日で、朝から練習があり、すでに合格の知らせを受けていた白布や川西を含む三年生の数名が練習に参加してくれていた。午後からはゲーム形式の練習をしており、その休憩中にナマエは顔を出したのだ。
「受かったー……」
 少しやつれたように見えるナマエの周りに、部員たちがわらわら集まる。
 白布がよかったな、と微笑んだり、一年の後輩がお疲れ様です! と声をかけたりと、湧き上がる中に五色も加わり、おめでとうございます、とナマエに伝える。すると、ナマエは、安心したように、ありがとう、と笑ってくれた。
「じゃあ、春からは東京なんだ」
 ナマエの隣に立っていた川西が尋ねる。ナマエは、そうだね、と当たり前のように返事をして、五色は、え? とフリーズした。
「じゃあ、俺と一緒だな。これからもよろしく」
「うん、よろしく〜」
「あの、ナマエさん……」
 川西たちの会話を分け入れば、ナマエが何? と不思議そうにし、それが少し腹立たしかった。
「ナマエさん、前に県内の大学を受けるって言ってたじゃないですか。それを東京って、どういうことですか?」
 ナマエは、あぁ、と思い出したように言った。
「部活引退してから成績が上がったの。それで、もう一つレベルを上げようと思って。本当はそっちにいきたかったし……」
 照れくさそうにしながらも喜びを滲ませているナマエを見ると、そうですか、としか言えなかった。
 下ろしていた手に拳を握る。
 こんなの裏切りだ。
 そう思えば、ぽつりと落ちた黒いシミは一気に広がった。
 だって、春高予選を見に来てくれるって約束していたじゃないか。東京に行ってしまったら、見に来れないじゃないか。あれは、嘘だったのか。
 あの場所を目指すのは、自分のためであったけど、ナマエのためでもあって、ナマエだって、そのことを知ってくれていたはずだ。だから、見に来てくれると言ってくれたのではなかったのだろうか。
 別に東京に行くことを反対しようなどとは思っていない。
 でも、せめて、春高予選を見に行くと約束していたのだから、東京に行き、それが叶わなくなるかもしれないことを教えておいて欲しかった。川西には話していたようだったし。
 こんな不意打ちのように知りたくなかった。
「どうしたの? 五色くん?」
 心配そうにナマエが俯いていた五色の顔を覗き込んでくる。
 どうしたもこうしたもないだろう。
 この人は、自分が五色を裏切ったことにすら気づいていないのだろうか。
「あなた、最低ですね」
 自分でもゾッとするほど低い声が出た。周りがしんと静まり返り、ハッとする。
 顔に笑顔を貼り付けた。
「なんでもありません。合格おめでとうごさいます」
 ナマエの顔なんて見てやらなかった。そのままナマエたちから背を向けた。

「あいつ、なんだよ。大丈夫か、ミョウジ」
 五色の背中を眺めながら川西が言った。
 自分が話しかけられているとナマエはわかっていたが、体の中で心臓の音がバクバク、バクバク響いており、何も考えられなかった。
「ミョウジ?」
 川西に顔を覗き込まれ、ようやく思考が回り始める。
「あ、えと……ごめん。何?」
「大丈夫か?」
 大丈夫とは、先ほどの五色の発言のことだろうか。
『あなた、最低ですね』
 そう言った時の五色の暗い瞳や冷ややかな声を思い出すと、胸がぎゅっと締め付けられたが、この場に川西と白布だけならともかく後輩たちもいる中、大丈夫じゃない、なんて言えなかった。
「大丈夫だよ。五色くんもなんでもないって言ってたし」
「まぁ、気にすんなよ」
「そうだね」
 そう笑ってみたものの、本当は顔を両手で覆って泣き出したかった。
 どうしよう。五色くんに嫌われた。
 多分、東京の大学に行くから怒ってるんだ。東京の大学に行ってしまえば、春高予選を見に行くという約束を守れなくなる。でも、土曜に試合をやってくれる決勝なら見に行けると思って、特に深く考えていなかった。
 今からでも、あの遠ざかっていく背中を追いかけ、謝った方がいいだろうか。
「ごしっ――」
 五色を呼び止めようとしたが、その声は体育館の扉が開く歪な音にかき消された。監督が休憩から戻ってきたのだ。周りにいた部員たちが監督の元に駆け寄り始める。練習が再開されるのだ。川西も、じゃあな、と言って走って行ってしまった。
「え……まって……」
 か細い声は、バタバタと複数の足音が響く体育館では誰にも拾われず、気づいたら、川西に続こうとしていた白布のTシャツの裾を握っていた。きっと、縋るような瞳で白布を見上げているのだろう。三年もの付き合いになると、こうしてどうしたらいいかわからない時、しっかりとした頼もしい同級生に頼ってしまう。
 振り返った白布は、男の子にしては綺麗な手でナマエの頭を二回ぽんぽんと撫でた。
「気にすんな」
「そうだよね、ごめん……」
 白布のTシャツを離せば、白布は気遣うように眉を寄せたが、それ以上どうすることもできないのだろう。結局、監督の元へ走っていった。
 行き場のなくなった手で、自分のズボンを握りしめる。本当は自分も練習に参加しようと思い、ジャージを着てきたのだ。でも体育館を出た。
「んぅっ………うぅ…………」
 唇を噛んでも嗚咽が漏れた。涙は拭っても拭っても、落ちていった。何度も擦った頬がひりひりと熱い。
 いつも眩しい瞳で見てくれる後輩。最初は危なっかしくて目が離せないというだけだったけど、元気すぎる新入生から白鳥沢のエースへと成長していく姿を見守っていくうちに、いつしか目で追いかける理由は変わっていた。
 でも、もう、あの瞳で私を映してはくれないのだろう。
 行き場もなく、トボトボと寮へ帰った。