終業式を終え、春休みに入っていた。春休みに入れば、毎日、朝から晩まで部活の日々となり、練習だけをした日もあれば、他校の選手や大学生が来て、練習試合をした日もあった。基本的には集中して部活に打ち込んでいたのだが、休憩をしている時や寮に帰っている時など、ふとした瞬間に、つい、ため息をついてしまう。
「うるせーな」
 白布に怪訝そうに言われた。
 その日は部活がオフで、寮の食堂で白布と並んで昼食を取っていた。卒業生は三月末まで寮にいることができ、白布もまだ寮に残っていたのだ。
「なんですか? 藪から棒に……」
 ご飯をもぐもぐしながら、怖い先輩に向かって、控えめにそう言うと、同じようにご飯を口にして頰を膨らませた白布が、さっきからお前のため息がうるさいんだよ、とこちらを見ることなく言った。
「別にそんなため息なんてついてませんよ」
「ついてんだよ。毎日、毎日、これみよがしにつきやがって」
 たしかに、最近ため息をついていた自覚はあったが、うるさいと言われるほどついた覚えはない。
「白布さんの気のせいじゃありません?」
 はぁ? と睨まれたので、とりあえず、すみません、と謝る。綺麗な顔をしているのに、やたら体育会系なこの人は、卒業したからと言って後輩に容赦をするつもりはないのだろう。きっと、大人になっても自分たちの関係はこんな感じなのだ。別にそれはいいのだが、どうしてか、またため息をつきそうになってしまう。やはりうるさいと言われるほど、ため息をついていたのだろうか。喉まででかかっていたそれを飲み込んだ。すると、それはもやもやと胸の中で渦を巻きだす。なんだか、すっきりしない気持ちで、皿に残っていた、焼きサバの最後の一切れを口に入れた。
「そんなにため息つくくらいなら、謝りに行けよ」
「なんのことですか?」
「お前、馬鹿なの?」
 仮にため息の数で白布に迷惑をかけていたからといって、ここまで暴言を吐かれることもないだろう。でも、不機嫌を滲ませる白布にそれを言うことはできなかった。すると、今度は白布が盛大にため息をついた。自分だって、ため息をついているじゃないか。心の中だけで毒づく。
 白布は持っていた茶碗と箸を置いた。どうやら、五色と同じく食事を終えたようで、トレイを持って立ち上がる。
「ミョウジ、今日、寮を出るんだってな」
 突然出てきた人の名前に体が強張り、その話題を聞き流すことはできなかった。
「え、なんで……三月末までいられるのに。白布さんだって、まだ寮に残ってるじゃないですか……」
「別に三月末までいなきゃなんねーってことはないからな。ミョウジの場合、東京に引っ越すから、早く家に帰って準備したいんだろ」
 そうだったのか。
 ナマエの実家は、ここから、電車で一時間ほどだと聞いている。実家に帰ってしまえば、いよいよ顔を合わすのも難しくなるだろう。
「でも、俺には関係ないですけどね」
 五色もトレイを持って立ち上がると、白布に呆れられたような顔で見られた。
「なんですか、その顔は……」
「ミョウジ、一時半の電車に乗るって言ってたぞ」
 反射的に時計を見ればちょうど一時を回った頃だった。
「今から駅に向かえば間に合うかもな」
 たしかに、今から行けば間に合う、とまで考えてハッとした。
「別に行きませんよ!」
 そう叫べば、トレイを持って返却口に向かった白布に、あぁ、そうかよ、といつかのように興味なさげに言われただけだった。

 部屋に戻って、机に向かう。今日のうちに春休みの宿題を片付けようと思ったのだ。ノートを開きシャープペンシルを握った。しかし、参考書の文字が一文字も頭に入ってこない。普段は気にもならないのに、机に置かれた時計の針の音がやたら頭の中でチクタクチクタク響いており、何かに駆り立てられているような気になった。時計を見れば一時十分。走ればまだ間に合うか、と考え、何にだよ! と突っ込んではみたものの、もう知らんぷりはできなかった。先ほどからナマエの顔が真っ白のノートに描かれては消えないのだ。
 あなた、最低ですね、と言った時に見せられたショックを受けたような顔。五色くん? と不安そうに見上げ話しかけてくる顔。そして、卒業式の日に見た、頑張ってね、と悲しそうに微笑む顔。それらをかき消そうと頭を振れば、今度は、随分と時間が遡り、みんな五色くんのことを信じてるんだよ、と言ってくれた時の笑顔や、カッコよかったよ、と言ってくれた時のいたずらっ子のような顔、春高予選を見に行くね、と言ってくれた時の優しく微笑む顔が描かれ出す。勢いよく、ノートを閉じた。
 集中できないのなら、しょうがない。部屋の片付けでもするか。
 今朝取り込んでベッドの上に放置してあった洗濯物を畳み始める。全て畳み終えると、ベッド下の衣装ケースを引き出し、中に入れていく。全て入れ終え、引き出しを閉めたが、引き出しは二センチほど突き出たままだった。近頃ずっとこうなのだ。中身が溢れているというわけでもないのに、引き出しが全て入りきらない。後ろに何か詰まっているのだろうか。
 暇だし、後ろを見てみるか。
 ベッド下から重たい衣装ケースをずるずる引っ張り出す。衣装ケース全体が露わになると同時に、埃が舞いあがり、咳き込んだ。慌てて、窓を開ける。
 吹き込んでくる花の香りに、春を感じながら、衣装ケースの後ろを覗きこむ。見つけたものに、ドキッとした。
 衣装ケースの後ろに挟まっていたものはスポーツ用品店の手提げ袋だった。埃被ったそれを引っ張り出す。再び舞い上がった埃を手で払い除け、手提げ袋から中に入っているものを取り出す。若葉のような緑のタオルが現れた。ナマエにプレゼントしようと思っていたものだった。結局、渡しそびれていたのだ。衣装ケースの上に置いていた筈だったのだが、そのうち、後ろの方に落ちてしまい、こうして、衣装ケースの裏側で挟まり忘れ去られていたのだろう。
 チクタクチクタク。再び秒針が追い立ててくる。
 時計を見れば一時二十分になろうとしているところだった。今頃、ナマエは駅のホームに立ち、腕時計を確認しては電車が来る先を見つめているのだろう。
 もしこのまま、ナマエに何も伝えずナマエが電車に乗ってしまったら、五色は、今、胸の中で持ち余している気持ちを、ナマエにプレゼントしようとしていたタオルのように、いつかは忘れ去ることができるのだろうか。
 きっと、見えないところへ追いやれば、一時は忘れることができるだろう。しかし、必ずどこかで今みたいに見つけてしまい、胸を抉られるのだ。そして、ナマエに会いたくなり、果たして、その時、ナマエに会えるのだろうか。
 沸き立つ何かが胸の内側を何度も蹴りたてる。
 時刻は一時二十分を過ぎようとしていた。ナマエが乗ろうとしている電車には、もう、間に合わない。いや、全力で走ればあるいは――そう考える前に部屋を飛び出していた。
 手にはナマエに渡す筈だったタオルを握り、廊下を走る。誰かとぶつかりそうになり、慌てて避け体がよろけたが、立ち止まることなく、すみませんっ、とだけ謝り、やはり走り続ける。玄関のロッカーからスニーカーを取り出し、床に投げ捨て、横を向いた靴に足を滑り込ませ、指で折れ曲がった踵を直しながら、足はもう前に出ていた。
 寮を出て、駅に向かって走る。すぐに息が上がった。おまけに喉から鉄の味が滴っていく。しかし、足の回転を緩めることはしなかった。
 前方で青信号がチカチカと点滅するのが目に入り、もう限界だったのに、さらに速度を上げ横断歩道を渡りきる。曲がり角で顔を出した、犬とぶつかりそうになり、飼い主にペコペコ謝り、また走る。時刻を確認することすら惜しく、間に合うと信じてひたすら走った。
 汗を後ろに飛ばし、四肢がちぎれそうになりながら、ようやく駅につく。重たい足で階段を二段飛ばしで駆け上り、ICカードをタッチして改札を抜ける。ホームへ下りる階段へ向かうが、人々が続々と階段を上ってくるので嫌な予感がした。
 間に合え、間に合え。
 切羽詰まった様子で階段を下りようとする五色を階段を上ってくる人たちが、興味深そうに視線をよこす。何かを察してか、彼らが階段の端へよっていってくれたため、中央に道が開けた。五色はそこを転げ落ちるように下りていった。ホームへ到着すれば、電車はまだ止まっていた。
 よかった、間に合った。
 しかも、運良く、三両先にナマエがちょうど電車に入って行くのを見つけた。
「ナマエさん!」
 叫んだが、彼女は振り返らず、電車に入ってしまった。
「待ってください! ナマエさん! ナマエさんっ!」
 叫びながら走ったが、ナマエは電車から出てきてくれない。後もうちょっとなのに。そのもうちょっとが遠くて、ついに、ナマエが乗った車両にたどり着く前に、電車は扉を閉めてしまった。
「ナマエさん……」
 五色の足の回転は徐々に遅くなっていく。そして、五色の足が止まると、電車は出発し、五色の横を風が通り過ぎて行った。
 間に合わなかった。
 誰もいなくなったホームで、立ち尽くしながら、遠ざかって行く電車を眺める。視界にはみるみる熱いものが膜を張っていき、ゆらゆら揺れ、やがて弾けた。涙が頬を伝っていく。だけど、真っ直ぐ前を向き、下ろしていた手にはぐっと拳を握り、大きく息を吸って肺を膨らませた。
 気がつけば叫んでいた。
「あなたのことが好きでした!」
 そうか、俺はナマエさんのことが好きだったのか。
 胸の中でずっと漂っていたもやもやとした気持ちの正体を今ようやく理解したようだった。
 電車が小さくなっていく。やがて、地平線の先へ消えていった。
 涙を拳で乱暴に拭う。だけど、涙は止まらなくて、また力任せに拭った。
 どうして、白布からナマエのことを聞いてすぐに寮を出なかったのだろうか。いや、それ以前にナマエが話しかけてくれた時にナマエの謝罪を待たず自分から謝ればよかったのだ。
 酷いことを言ってすみませんでした。
 そのたった一言ではないか。どうして今まで言えなかったのだろう。
 かつて、自分が口にした言葉が今更胸を締め付ける。
『あなた、最低ですね』
 最低なのは自分だ。
 だけど、どれほど後悔したってもう遅い。
 仕方がないから、踵を返した。
 もし、またナマエに会うことができたら、ちゃんと謝ろう。そして、もう遅いかもしれないけど、自分の気持ちを伝えよう。決意を込めて、最後の涙を拭う。
 すると前方から声がかかった。
「五色くん?」
 そんなことあるはずないのに、その声はちょうど頭に思い描いていた人のもので。
 え? と間抜けな声をこぼし、顔を上げれば、目の前には先ほど電車に乗ったはずのナマエが立っていた。