1月

 テストが終わると、すぐに冬休みに入った。
 二週間くらいの間だけだけど、五色くんに会えないとなると、心にぽっかりと穴が空いてしまう。その穴を埋めるように毎日五色くんのことばかりを考えていた。
 朝食事を終たら、冬休みの課題をするために机に向かうのだけど、ふと机に置いてある時計を見ては、学校があれば今ごろ五色くんとおはよう、と挨拶を交わしているころなのに、なんて恨めしく思う。お昼になれば、五色くんはお昼ご飯食べたかなぁ、とか、午後からは何するんだろう、とか考えている。絵に描いたように恋する乙女になっており、自分でもどうかしているとは思うけど、夕方になれば、夏休みに会ったときみたいに今ごろ走っているのだろうか、と想像する。そして、ある日、あ、と閃く。また図書館に行けば会えるかも、なんて。
 自分がこんなにも行動力があるとは思わなかった。その翌日、課題を持っていそいそ図書館へ行ってしまったのだ。そんな下心丸出しで行くから、図書館でもソワソワしてしまい、全然勉強なんてできない。結局全く捗らないまま図書館を出る。ちゃっかり夏休みのあの日と同じ時間になるように。寒い中、無駄にゆっくり歩き、しかし、気がつけば家に到着。
 夏休みのような偶然はそうそう起こらないのだろう。考えてみれば当たり前だ。自分は何をしているのだろうか。項垂れつつも、次の瞬間には明日も図書館へ行ってみようと意気込んでいるしまつ。
 そうして図書館へ行っては期待に胸を膨らませ、悲しいくらいに何事も起こらない帰り道を歩くという日々を過ごし、ようやく始業式の日を迎えたのに不思議なことが起こった。
 朝、教室でやっと五色くんに会えたのに、いざ顔を合わすと、喜ぶどころか、これ以上ないほど胸が締め付けられたのだ。
「はよ」
 ぶっきらぼうな挨拶は相変わらず。
 でもこうして自席へ向かう途中に、席についている私へわざわざ挨拶をしくれるのも相変わらずなのだ。
 それは嬉しいことのはずなのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。
 自分の変化に戸惑わずにはいられず、冬休みに入る前とは異なり、少しぎこちなく、おはよう、と返した。
 その微細な変化に五色くんは特に気にすることもなく、自席へ歩いていく。
 行っちゃうんだ。
 当たり前のことなのにそう思った瞬間、とてつもない焦燥感に襲われた。
 もっと話したい。近づきたい。こんな挨拶だけじゃなくて、いつかのように微笑んで欲しい。
 それらの欲望が怒涛のように流れていく。
 きっと、表面張力が弾けたのだ。
 たった今表面張力が弾け、冬休みの間に溜め込んでいたものが溢れかえってしまったようだった。
 だけどここで五色くんを引き止め、立ち話ができるような話題を何か振れたのなら、私は冬休みの間、図書館へは行かず、男子寮へ行っていたはずなのだ。
 行動力といってもそれほどのものしか持っておらず、結局、自席へ向かう五色くんを見送るだけだった。
 離れていく背中に、胸の締め付けは苦しくなるばかり。
 その翌朝も五色くんといつものやりとりは行われた。
「はよ」
「おはよう」
 たったそれだけ。
 その翌日も。
「あ、ミョウジさん、はよ」
「おはよう」
 挨拶を返せば、五色くんは視線を前へ戻し歩いていく。気がつけば机の下で拳を握っていた。
 そしてその次の日も。
「はよ」
「おはよう」
 去っていく五色くんに走り出したいほどの焦燥感を抱えているのに、今回も情けないほど何もできない。もう泣きそうだった。
 恋の病は厄介だ。と思ったのだけど、本当に厄介だったのは、これからだった。
 五色くんは日ごろクラスの女子と話すことはない。基本一人で席についているか、その周りに集まる同じバレー部の子たちと話しているかなのだ。
 でも必要が迫れば話は別なようで、例えば日直がやってきたとき、同じくその日、日直だった女子が黒板を消していたら、わりぃと言って五色くんも彼女と並んで黒板を消し始める。
 そこまではいいのだけど、その女子が黒板の上の方を消し辛そうに背伸びをしていたら、五色くんがそこをさっと消すのだ。彼女は嬉しそうに五色くんを見上げる。
「ありがとう」
「別に」
 もちろん五色くんは私と接しているときのように素っ気ないのだけど、それがいいスパイスとなるのか、女子が五色くんを見上げる瞳には熱が帯び始める。まるでさくらんぼが甘酸っぱくぶつかり合うようなその瞬間に、つい私は唇を噛み締めてしまうのだ。
 何も難しいことはない、ただの嫉妬だ。
 自分が嫌になった。
 抱えていて幸せだったばすの五色くんへの思いが今や腫れ物のようになっており、ちょっとしたことでそこから汚いものが溢れ出しそうになっている。
 こんな経験は初めてだった。だって、こんなにも強く思う人ができたこと自体が初めてなのだから。
 私より経験豊富そうなトモちゃんに相談したかった。どうしたらこんな汚い気持ちを抱かずにすむの? と。
 例えこの問題を解決することができなくとも、せめて溜め込んでいた苦悩を吐き出したかった。そうすればいくらか気は晴れただろうに。
 でも、今トモちゃんはそれどころじゃなかった。なんでも冬休み中にトモちゃんの思い人だという例の大学生が女の人を連れて歩いているところを見てしまったそうだ。
 トモちゃんの悩みは自分ではどうしょうもできないことだ。それに比べ私の悩みは自分でどうにかできることだ。それなのに、酷く落ち込んでいる友人に、さも自分の方が不幸だと言わんばかりに相談なんてできなかった。
 そして、一人で考えてみた。でもどんなに考えても、勝手に浮かび上がってしまう嫉妬との向き合い方なんてわからなかった。わかったことは、好きという感情はたくさん抱いてはいけないのだということだけ。
「はぁ……」
 気がつけば魂が抜けていきそうな大きなため息をついていた。
「大丈夫か?」
 五色くんが私の顔を覗き込んでいた。
 登校してきて、下駄箱にローファーを入れたときのことだった。
 最近、寝不足気味で朝スッキリ起きられず、今日はいつもより遅い時間に来ていた。だから、普段は教室で顔を合わせているところ、こうして下駄箱の前で鉢合わせたのだろう。
「え? 大丈夫って何が?」
「最近元気ないだろ」
 五色くんにバレていたのか。そう思うと、嫉妬していたことまで筒抜けだったのかと心配になる。
「元気だよ! とても元気!」
 両手をぶんぶん振って元気アピールをした。
 だけどそううまくはいってくれず、五色くんは訝しげに眉を寄せる。
「でも体調悪そうだ。今だって顔赤いじゃねーか」
 そりゃ赤くもなっちゃうよと思いながらも認めるわけにはいかない。
「そうかな?」なんて返して、これ以上顔を見られないように俯く。横髪が落ちてきてうまく隠してくれているはずだ。
「いや、そうだろ。だってほら……」
 ほら? ほらって何が? と思ったのも束の間。大きな手が伸びてきて、それは顔を覆う横髪の間をするりと侵入し、意図も容易く頬に触れる。
 少し乾燥した硬い親指が遠慮がちに頬をさすっていた。
 嘘! 触られてる! 五色くんに!
「わぁっ」
 気がつけば、その手を叩いていた。冬の朝のシンとした空気に乾いた音が響く。
 ポカンとした五色くんを見ると、我に返った。今更五色くんを叩いた手がじんじんと熱を帯びていく。
「ごめん……叩いちゃって……」
 五色くんは自分が何をされたのか、確かめるように、私に叩かれた手を見る。そのまま二、三秒がたったのち、ハッとし、瞬間くしゃっと親に叱られた子どものような顔をした。
「ごめんっ……俺……勝手に触って……別に触りたいとか! いや、触りたいけど……ちが、何言ってんだ……俺……くそっ! とにかくごめん! 忘れてくれ!」
 言い終えると、五色くんは走り去っていった。
 目の前で一方的に暴風を吹き荒らされ、それがその勢いのまま去っていけば、相対的にそこは静まり返り、私も冷静になる。とりあえずここで突っ立っていてもしょうがないので、教室へ向かった。
 教室では、五色くんがこもるように机に突っ伏していた。
 その翌日、登校して席についていたら、いつもの時間に五色くんは教室へ入ってきた。自席へ向かう途中私の前を通る。でもいつものように目は合わない。もしかしてそのまま行っちゃうのかな。
 心配になり、慌てて、おはよう、と声をかけた。五色くんは目に見えてビクッと揺れる。しかも私を見ることなく、まるで初めて会った隣人にするように他人行儀にぺこっと頭を下げ、すたこら席へ歩いて行ってしまう。
 まさか五色くんに頭を下げられるなんて。よそよそしいにも程がある。そんなことをされたら、翌日も私の席を素通りしようとする五色くんに私から挨拶なんてできなかった。私が挨拶しなければ五色くんもしてくれない。
 今までもただのクラスメートでしかなかったけど、本当に私たちはただのクラスメートになってしまったようだった。