6月

 空には雲一つなく、照りつける陽光がギラギラとしていた。しばらく雨が続いていたのに、今日に限って晴れてしまったのだ。グラウンドから蒸し蒸しとした空気が立ち昇り、額や首筋と汗が浮き出てくる。
「暑いね……」
「そうだね……」
「一度テントに入ろっか」
 最初のうちは、頭のてっぺんをじりじりと焼きながら、グラウンドで競技をしているクラスの子たちを応援していたのだけど、太陽が登り切る前に、私とトモちゃんはテントの下に入ってしまったのだった。
 炎天下で戦っている同胞がいる中、小陰で涼しむなんて、まるで私たちが薄情者のように思えるかもしれないけど、実のところそうでもない。
 もともとテントの外に出ていたのは、今年が初参加の一年くらいで、二年や三年は最初からテントの下にいた。どうやら高校の体育祭というものは真剣に取り組むものというよりは娯楽の一種らしく、二、三年のほとんどはテントの下で座っておしゃべりに花を咲かせており、盛り上がりのある競技になれば、応援するというよりはヤジを飛ばしている。
 そんなスポーツ観戦のような雰囲気に一年の誰かが気づくと、右に倣えなのか、はたまたは楽な方へ流れるなのか、テントの下へ入り、また誰かが入りとして、いつの間にか周りが寂しくなっており、私たちもテントの下へ避難することにしたのだった。来年からは私たちも初めからテントの下にいるのだろう。こうして、伝統というものは引き継がれていくのだ。
 テントの下でブルーシートに座りながら、砂埃が上がっているグラウンドを眺める。ちょうど白組と赤組の男子による騎馬戦が行われており、聞こえて来る雄叫びがちょっと暑苦しかった。
 応援をしながらも、私たちもおしゃべりを始める。

「あ、五色が出てる」
 トモちゃんが突然グランドを指さしたのは、テントの下で応援しているのか、おしゃべりをしているのかよくわからなくなってきたころのことだ。
 グランドではちょうど午前の部の目玉である部活対抗リレーが始まろうとしていた。目玉といっても、一年の、特に帰宅部の私たちにはほとんど関係ないから、おしゃべりに熱中していたのだけど。
 うちの学校は程度の差こそあれ、どこの部活もそれなりに名を馳せているところばかりで部員が多い。よって、一年が部活対抗リレーに出ることはまずないのだ。しかし、五色くんが出ているという。
 つい、どこ? なんて聞きながら目を凝らしてグランウドを見てしまった。
「スタートのところ。トップバッターみたいだよ」
 そう言われて、トラックのスタート地点へ目を向ければ、白線がひかれたところで、バレー部のものと思われるユニホームを着た五色くんが今にも走り出そうと構えていた。
 部活対抗リレーにも出場し、さらにはトップバッターを任さられるなんて。バレー部で期待されている選手だというのは本当らしい。
「工〜、転ぶなよ〜」
 どこかから、陽気な声が聞こえて来る。
 転びませんよっ! と五色くんが叫ぶと、笑い声が起こった。五色くんはむすっとした顔でまた構える。
「なんか、五色、教室とは雰囲気違うね」
「たしかに……」
 教室で五色くんにあんな風に話しかける人はいないからかもしれないけど、いつものクールな一匹狼とはすこし違った雰囲気だった。まるで、いじられキャラみたいだ。
 スタート地点は、五色くん以外にも、柔道着を着た人、水着を着た人、さらには暑苦しそうな剣道着にカブトまで被った人などで賑やかになっていく。十人ほどの運動部が並び終え、みんなが構えると、緊張が漂い始める。しばらく水を打ったような静けさが続き、私もその空気に飲み込まれのどを鳴らす。瞬間、見計らったようにピストルがなり、同時に選手たちが飛び出した。
 五色くんも好調にスタートを切ったようで、先頭の方を走っている。胸に張り付くユニホームを後ろに靡かせ、腿を高く上げる長い足でどんどん進んでいく。トラックのカーブの中ほどに入るころには先頭は五色くんと陸上部の選手だけになった。
 五色くんが足を進めていくにつれ、私の胸はドキドキと高鳴っていく。頑張れ、頑張れ、なんて心の中で繰り返していた。
 カーブを曲がり切ると五色くんが少し遅れていく。その差は半歩。私は座っていたのに、そのころにはもう腰を浮かせていた。手にはいつの間にか拳を握っている。
 結局、カーブを進んだ先で、五色くんは陸上部の人と一歩の差で次の走者にバトンを渡した。私はストンと座り込む。
「五色くんすごかったね。陸上部の人とほぼ同時だったよ」
「そうだね。やっぱり運動神経よかったんだね」
「ね! すごくかっこよかったよね!」
 興奮気味に言ったのだけど、トモちゃんから同意の言葉は得られず、代わりにとてもやらしい笑みを返された。
「へー、かっこよかったんだ」
「え……なに……」
「いや、ナマエは五色がかっこよかったんだなぁって思って」
「なっ、べ、別に普通じゃん! 改めて言われることじゃないよ!」
 トモちゃんは、ふーん、とわざとらしく相槌を打つ。
 これ以上、何か言っても墓穴を掘るだけのような気がしたので、喉まで出かかっていたたくさんの言葉を飲み込んだ。すると、ピストルがなる。その音に釣られ、グラウンドを見ると、バレー部がゴールテープを切ったところだった。少し、遅れて陸上部がゴールし、その後、続々と他の部が続いていく。
「いつのまにバレー部逆転してたんだね。一位だよ」
「そうだね。全然気づかなかった」
「トモちゃんが変なこと言うからだよ」
「ナマエがでしょ」
 トモちゃんは意味ありげに笑った。
 お昼休憩に入り、お弁当を食べに教室へ戻る。
 いつものように、トモちゃんがお弁当を持って私の席へ椅子を引きずってやってきた。そして、向かい合い、私の席でお弁当を広げていると、前方から大きな男子学生が歩いてきて、つい顔を上げてしまう。互いに、あ、と言って目が合った。五色くんだった。
 席替えをし、今五色くんの席は私の列の一番後ろにあった。
 席替えのとき、身長の高い五色くんは一番後ろにしか選択肢がない。最初に五色くんの席が決まり、のちに、私たち他の生徒たちの席が決まるのだ。私たちの席はくじ引きで決まるのだけど、何番を引けば五色くんの隣になれるのかをこっそり確認してからくじを引いた私は引いたくじの番号を見て、ちょっとガッカリしたのだった。
 教室に戻ってきた五色くんはもうユニホームから体操着に着替えてしまったようだった。少し残念。
 五色くんが、お疲れ、と言ってくれたので、私も、お疲れ、と返す。
 いつもであれば、そこで私から目を逸らし、会話は終了してしまうのだけど、今日はなぜかもっと話してみたくなった。
「さっき、すごかったね」
「何が?」
 私にしては結構勇気を出して会話を続けたのに、五色くんからは随分と冷たく返ってきて、急に不安になる。
「あ、えと、走ってたの。さっき。リレー。すごかったね」
 酷い片言で返すと、私たちの間でトモちゃんがぷっと吹き出し、肝心の五色くんは、別に、とまた素気なく返す。
 とりあえず、意地の悪いトモちゃんに、笑わないでよ、と言う代わりに、机の下にある彼女の足を軽く蹴っ飛ばしておいた。
 一方、五色くんは私から目を逸らし、ぶすっとしたままだった。
 どうしよう。何か言わないと五色くんとは雰囲気を悪くしたままこれっきりになってしまう。せっかく頑張って話しかけたのに。でも、なんと言えばこの気まずい雰囲気を挽回できるのかわからなかった。トモちゃんとなら、こんな難しいことを考えずに普通に話せるのに。五色くんだから、というよりも、男子だから、よくわからなくなっていた。
 普段男子とは話さない。小学生のころは平気で話せていたはずなのに、思春期に入ったころに、訳もなく彼らと深い溝ができ、関わりを絶ってしまったのだ。そして、高校生になった今も、その溝の埋め方を知らず、いざこうして話そうとしても、何も言葉が出てこないのだ。
 小学生の私はどうやって男子と話していたのだろうか。
 いや、相手が男子と意識するからダメなのだ。トモちゃんと話しているつもりになればいい。でも、普段トモちゃんとどんなふうに話していただろうか。改めて思い出そうとしてみても、何も思い浮かばなかった。
 どうしよう、どうしよう。目を回しながら、頭の中の引き出しを手当たり次第開けていったのだけど、ことごとく中は空っぽっで、五色くんにかける良さげな言葉は見つからなかった。
 もう諦めよう。そう思い、肩を落として、じゃあね、と言いかけたのだけど、どうやら五色くんの先ほどの、別に、という発言には続きがあったようで五色くんは唇を尖らせながら続けた。
「何もすごくない。俺、一位じゃなかったし」
 もしかして、五色くんが不機嫌そうに見えたのは一位になれなかったことが原因だったのだろうか。小さな子どもみたいでちょっと可愛いかも。少し口元が緩む。
「しょうがないよ。相手は陸上部だったし」
「別にバレー部が陸上部に勝ってもいいだろ。牛島さんは――」
 知らない人の名前を上げられ、牛島さん? と首を捻れば、五色くんは言い直す。
「いや、その、俺の先輩は陸上部抜いてたし」
「へぇ、それでバレー部が一位になってたんだね」
「見てなかったのかよ」
「うん、五色くんしか見てなくて……」
 言い終えて、ハッとする。今とんでもないことを口走った気がする。
「あ、や、そうじゃなくて。五色くん見終わったあと友だちと話してたから。その、別に五色くんだけを見てたってわけじゃなくて、たまたまそうなっただけで……それで他の人たちは見てなかったの……」
 しどろもどろに付け足すと、トモちゃんがニタニタ笑っているような気配を感じた。
 だからそんいうんじゃないんだってば。机の下にあるトモちゃんの足を蹴飛ばす。すると、そういうのでしょ、というように、足を蹴飛ばされ返された。もうっ、からかわないでよ。
 五色くんは挙動不審な私を見て首を傾げている。
 私は気を取り直すべく、小さく咳払いをした。
「午後からのクラス対抗リレーも頑張ってね」
 おう、と言った五色くんは応援されて気を良くしたのか、ようやく口の端を上げてくれた。そして、自分の席へ歩いていく。
「結構頑張ったじゃん」
 トモちゃんが私の足を蹴飛ばして言う。
「別に頑張ってないよ」
 五色くんみたいにぶっきらぼうに返してしまった。
 午後からは、テントの前線でクラスの子を応援していることが多かった。最初は午前中と同じようにテントの中ほどでトモちゃんとおしゃべりをしていたのだけど、落ち着きなくグラウンドへ視線をやっていたら、トモちゃんが応援しよっか、と手を引っ張ってくれたのだ。
「五色が頑張ってるもんね」
 なんて、余計なことを言わなければトモちゃんはとてもいい友人だと思う。
 クラス対抗リレーでは、五色くんがアンカーだった。一番最後にバトンを渡されたのに、その長い足を回転させ、どんどん他クラスを抜いていき、しまいには先頭に立ち、一番にゴールした。
 みんなの英雄となった五色くんはガッツポーズをして、喜びをむき出しにしていた。
 その様子をテントの下で見ていて、なんだか、大切なものを奪われてしまったような気がした。