8月
そういえば、この辺に白鳥沢の寮があると聞いたことがある。
夕暮れ色に染まった空を眺めながら、白々しくもそう思ったのは、図書館からの帰り道だった。もうすぐ夏休みが明けるため、課題を片付けてしまおう、と隣の駅にある図書館に来ていたのだ。お昼からずっとこもっていたおかげで課題は全て終わった。あとは始業式を迎えるだけだ。
夏休みの間は勉強をしながらも、トモちゃんと遊んだり、本を読んだり、ただ昼寝したりと、一日を好きなように過ごし、毎日が楽しかった。でも、学校がなければ会えない人もいるわけで、ふとしたときに早く学校始まらないかなぁと思い、カレンダーを見てしまうのだった。
そうやってカレンダーを見て、あと何日で学校、と数え、始業式に思いを馳せていたわけではない。トモちゃんのおかげで知り得た特別な日が八月にあり、それは、顔を合わせることのない夏休みに、唯一となった彼との繋がりで、つい、その日付を見てしまうのだった。でもその日が来たって、会えないのだから、どうしようもないのだけど。
道端とかで偶然会えたりしないかなぁ。
そんな夢を見てしまったのが、今日八月二十二日の朝のことだ。そういうわけで、普段は家で勉強をしているのに、わざわざ電車に乗って図書館までいき、図書館で勉強して、こうして図書館から駅に向かって歩いていたのだった。
そんなドラマみたいなこと起こるわけないのに。
自分でも笑ってしまう。でも気持ちゆったりめに足を動かす。
そうやって小さな悪あがきをしてみたけど、やはり何かが起こるというわけでもなく、ついに前方に駅が見え始める。もう諦めるか。いつものペースで歩き始めたのだけど、どうしてここにきてまた、あ、と声を上げるハメになるのだろう。目があった彼も、あ、と声を上げ立ち止まった。
先月あたりに意地悪と言ったことを根に持たれているのか、なんだか神様に遊ばれている気がした。
悔しいけど、一度諦めたぶん、驚きと喜びが大きく、顔が苦いんだか甘いんだか、よくわからない形で歪んでいく。でも、変な人に思われたくないから、頑張って表情を固定する。
「ミョウジさん、お疲れ」
「お疲れ、五色くん」
Tシャツにハーフパンツ姿の五色くんは走っていたのか、立ち止まっても、肘を曲げたままにしており、手には拳を握っていた。いつもサラサラだった髪の毛は湿気を帯びており、ところどころ束になっている。その毛束の先から滴る汗が、すっと離れ落ちていったとき、五色くんはまた口を開いた。
「ミョウジさんこの辺に住んでたんだ」
「あ、えと、違うのっ、この近くの図書館で勉強してて。家は隣の駅」
「そっか、俺は走ってて。寮この辺だから」
「へぇ、そうだったんだぁ」
なんて、よく言えたものだったけど、適当に返事をしてしまったがために会話がここで終了してしまう。いつかのように、慌てて頭の中の引き出しを開けていく。何か会話を。共通の話題を。せっかく会えたのだから、もう少しお話したい。
だけど、やはり引き出しの中身はことごとく空っぽで、心細さに、肩にかけていた手提げ袋をぎゅっと握る。すると、その重みが私にヒントを囁いてくれた。シンとなる前に急いで口を開く。
「五色くんはもう課題終わったの?」
「いや……まだ終わってない……」
「そっか……部活もあるもんね」
「いや、部活があってもちゃんとやらないとダメだよな」
真剣な顔をした五色くんはやっぱりかっこよかった。そうやって何に対しても一生懸命に取り組むから、一番になれなければ落ち込み、なれたときには全力で喜べるのだろう。
体育祭のときに喜びを全身で表現していた五色くんの姿を思い出すと、あの日盗られてしまった何かを求め、きゅっと胸が締め付けられる。
「ミョウジさんは? 課題もう全部終わった?」
「うん、今日全部終わらせた」
さすがだな、と言われ、なんだか嬉しくなる。
これくらい普通だよ、なんて思ったけど、せっかく褒めてもらえたので、それを口にするのはやめにした。
私を見下ろす五色くんは穏やかに目を細め、優しい風が吹く。自然と、じゃあね、と言いかけ、五色くんも、じゃあ、と言って走り出そうとしたのだけど、ハッとした。
なんのために、今日わざわざ電車に乗って隣町まで来たのだ。
「待って!」
慌ててその背中を呼び止めた。五色くんは走るフォームをしたまま、振り返る。
「何?」
「えと、その……お誕生日、おめでとう」
「え……なんでそれ知ってっ……」
五色くんが目を丸くしていたから慌てて付け足した。
「この前トモちゃんが聞いてたでしょ、五色くんの誕生日!」
「あぁ、それで……覚えてたのかよ……」
五色くんが顔を顰めてそう言うから、ぎくっとする。たまたま聞いた誕生日をずっと覚えていて気持ち悪いと思われただろうか。よくよく考えてみれば、私たちは誕生日を祝うような間柄ではないのだ。一学期の間はたいして親しくもないクラスメートだった。
途端に後悔に襲われる。でも、フォローする言葉も出てこなくて、代わりに重々しくならないように笑顔を作って、じゃあね、と言おうとした。
「ありがとう」
「え?」
「だから、ありがとう。覚えててくれて」
五色くんはわざとらしくそっぽを向いていた。その赤くなっている頬や耳が夕日のせいじゃなければいいのに。
「じゃあ、また学校でね」
おう、と言った五色くんは無愛想だったけど、もうそんなことは気にならなかった。五色くんが走っていく。その背中を少し見送り、私も踵を返した。
やっぱり、私、五色くんのことが好きなんだろうなぁ。
ちゃんと認めると、どうしてか、ちょっと泣きそうになった。