
9月18日火曜日。三連休が明けた直後のことだ。
帰りのホームルームが終わると、教室がざわざわと騒がしくなる。いつもだったら、私もみんなの流れに乗って帰宅するのだけど、今日は違う。
「ミョウジさん、行こ」
席から立ち上がった瞬間に、背後からふいに声をかけられ、心臓が飛び出そうになった。
「なんて顔してんの」
角名くんがふっと笑い、隣に立つ。
「別に普通の顔だよ」
「そう? じゃあ行こっか」
「うん」
今日は朝からずっと落ち着かなかった。早くこの時が来て欲しかったような、いつまでもこの時が来ないでずっとソワソワしていたかったような。遠足前の子どものようだった。
机に置いていたスクールバッグをぎこちなく肩にかけ、角名くんと歩き出す。
誰も私たちのことなんて気にしていないだろうし、まさか付き合っているなんて思いもしないのだろうけど、みんなの前で2人で歩くのは緊張する。隣を歩く角名くんの横顔はいつも通りの澄まし顔だけど。
手足を同時に出すなんて馬鹿みたいなことしてないよね。普段どう歩いていたのか、意識した途端にわからなくなる。
廊下では各教室から続々と生徒が出てきて、みんな昇降口の方へ向かって歩いていた。私たちもその流れに乗って歩いていった。
昇降口を出ると、突然下ろしていた手を掴まれる。びっくりして自分の手を見下ろすと、角名くんの大きな手が私の手を包んでいた。
「まだ学校だよ!」
「別にいいじゃん。それとも俺と付き合ってるって知られたくないの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ、いいでしょ」
角名くんは当然のように指を絡める。パッと見たところ、周りにクラスメートはいないようだったけど、下校する生徒たちが普通に歩いているし、男の子と手を繋ぐのは初めてだし、相手は角名くんだし。色々なことでいっぱいいっぱいだ。
でも、せっかく角名くんが手を繋いでくれたのだから勇気を出して角名くんの手を握ってみる。すると、角名くんも握り返してくれた。ドキドキするけど、繋いでくれている手が寒さや隣を走っていく自転車などから守るようにしてくれており、なんだかんだで口元が緩んだ。
バスに乗って市街地へ向かう。
初めてのデートとなる行き先は、夕食後の習慣となりつつあるメッセージのやりとりの中で決めた。
“ミョウジさんは行きたいとこある?”
うーん、と首を捻っていると、メッセージが追加された。
“ボーリングとかカラオケとかでもいいけど、俺はゆっくりミョウジさんと話がしたい”
“じゃあ、カフェでも行く?”
“それでもいいんだけど”
好感触とは言えない返事が返ってくる。カフェはまずかったかなと心配になっていると、またメッセージが追加された。
“俺、シャーペン買いに行きたいんだよね。今使ってるのボロボロだからさ”
“いいよ。じゃあ、シャーペン買いに行こ”
シャーペンを買いに行くなら、と考えながら親指を動かしていく。
“駅前のショッピングモールはどう? 私もちょうどお弁当用のフォーク買いたいって思ってたところだったし”
先週の月曜日に角名くんとお昼ご飯を食べてからも、また金曜日に一緒に食べたのだ。揶揄われているのか、私が箸で卵焼きをつかむと、期待の色を浮かべた角名くんが肩にもたれかかってきたり、冗談のような甘い言葉を囁いたりするから、手元が危うく、やっぱりフォークにしよっかなぁと思っていたところだった。
“いいよ。俺もミョウジさんはフォーク買いに行った方がいいんじゃないかなって思ってたところだったし”
角名くんが可笑しそうにしている姿が目に浮かび、1人でスマホと睨めっこをした。
市街地に着き、駅前のショッピングモールに入った。エスカレーターの前に立つと手を引っ張られ、自然と前に立たされる。角名くんは私の後ろに立つ。何かと適当そうなのに、こういう気遣いがさりげなくできるところは流石だ。そう思いながら、一段下にいる角名くんをじっと見下ろす。
「今失礼なこと考えてたでしょ」
角名くんに上目で見上げられ、う、と変な声が漏れた。
「し、失礼なことじゃないよ。最終的には流石だなって思ってたんだし」
しどろもどろになって答えると、何が流石なの? と角名くんは上目のまま首を傾げる。なかなか見れないアングルの角名くんは妙に可愛い。
「それは……えと……」
「前、着いちゃうよ」
慌てて前を向きエスカレーターから降りた。
さっきの言葉の続きを探していると、エスカレーターを降りた角名くんは、あ、と声を上げる。
「雑貨屋だ。あそこ入ってみよっか。フォークおいてあるかもよ」
角名くんは繋いでいた手を引っ張り雑貨屋へ歩いていく。さっき話していたことはもういいのだろうか。
常に角名くんのペースだけど、歩幅だけはずっと一緒なのだ。
目の前には、様々なフォークが並んでいた。パスタを食べるようなフォークやケーキを食べるような小さなフォーク。取手の柄も色とりどりで、ステンレス製以外にも木製などもあり、種類は豊富だ。
でも探しているフォークはこういうフォークではないのだ。
棚を端から端まで見渡し、お弁当用のフォークを探していると、ミョウジさん、と繋いでいた手を引っ張られた。
「何?」
「これなんて可愛いんじゃない?」
角名くんが指差した隣の棚を見てみると、そこには親指と人差し指で挟んで持つくらいの本当に小さな小さなフォークがあった。
「それ赤ちゃん用じゃん! 余計に食べにくいよ!」
角名くんはそっぽを向いて押し殺すように笑う。
何がそんなにおかしいんだか。
気を取り直して、またお弁当用のフォークを探そうとすれば、嘘だよと微笑んだ角名くんは、その下の棚を指差した。
「この辺ケースついてるからお弁当用にいいんじゃない?」
「本当だ……可愛い……」
取手が花柄や動物柄など、丸いフォルムのフォークが並んでいた。持ち運びができるように一つ一つがケースに入っている。
「どれにしよう。迷っちゃう」
「どれも可愛いもんね」
「うん……」
「これは? ミョウジさんの今使ってるお弁当に合うでしょ」
どれも素敵だったけど、角名くんが選んでくれたものはその中のどれよりも輝いて見えた。今使っているお弁当の上に乗っている姿も容易に想像できる。手に取ってみると、馴染むように手のひらに収まる。ますます愛着が沸き、これ以外に選びようがないように思えた。
それにこれは角名くんが選んでくれたものなのだ。それだけで特別だった。
「うん、これにする。ありがとう!」
フォークから顔を上げ角名くんを見上げる。角名くんは私を見て驚いたように目を見開く。だけどすぐに柔らかに細めた。
フォークをレジへ持っていこうとすると、角名くんに奪われる。
「プレゼントさせて」
「え? なんで? いいよ、悪いよ」
「俺が選んだのを気に入ってくれてなんか嬉しかった。だから、プレゼントさせて」
「あ、うん……でも……」
こんなにしてもらっていいのだろうか。
そう問いかけたのは、角名くんに悪いと思っている私だけではなかった。
だって、私は――と思い出し、胸の奥がざわざわと騒ぎ立てる。
「もっと嬉しそうにしてくれたら、俺も嬉しいんだけど」
角名くんの言葉にハッとする。
「そうだよね、ありがとう」
思い出しかけたことを忘れるように、今するのにふさわしい表情へ顔を作り直した。
楽しい時間をちゃんと楽しく過ごしたかったのだ。
雑貨屋を出て、綺麗にラッピングされたそれを両手で受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
角名くんの笑顔は相変わらず涼しかった。
ぎっしりペンが挿された棚から、角名くんは一本のシャーペンを取り出す。
3階の文具屋に来ていた。
角名くんは取り出したシャーペンで、試し書きの紙に、くるくるくると曲線を描いていく。そして、うーん、と唸り、クルリとペンを回した。
「え、すごい」
「ミョウジさん、これできないの?」
角名くんはまた親指を軸にシャーペンをクルリと回す。
「できない」
「できなさそうだもんね」
「別にできなくても生きていけるもん!」
そうだね、と笑う角名くんを尻目に、こっそり練習しようと思った。できるようになったら、角名くんの前で何食わぬ顔でペンを回してみよう。角名くんはびっくりしてくれるだろうか。
もう一度角名くんがペンを回すのをじっと見つめる。手から離れたペンが吸い込まれるように元の位置に戻る様子は不思議としか言いようがなかった。
私がやったら、あっちこっち飛んでいく未来しか見えない。
本当にできるようになるだろうか。ペンを持っているつもりで角名くんがした動きを真似してみる。
あれ? どの指でペンを弾いてたんだっけ?
「できるようになったら見せてね」
「うん。でももう一回見せてくれる? やり方がよくわからなくて……」と聞いてしまってから、気づく。
「別に練習なんてしないよ!」
「はいはい。こうやってやるんだよ」
角名くんはまたペンを弾いた。私は頬を膨らませながらも、ちゃんと観察する。どうやら、中指でペンを弾くらしい。
「ミョウジさんはどれ使ってるの?」
角名くんは待っていたシャーペンを棚に戻し、尋ねた。
「私は……あ、これ」
「あぁ、これ」
角名くんは私が指差したシャーペンを手に取る。私が使っていたものは赤色だったけど角名くんはその色違いである黒色を手にした。試し書きの紙にまたスパゲッティを描いていく。
私はそのシャーペンを書きやすいと思って使っているのだけど、角名くんはどうだろうか。緊張しながら角名くんの手元を見守る。
「へー、使いやすいね。これにしよ」
「え? そんなにあっさり決めちゃっていいの?」
「だってミョウジさんオススメでしょ」
角名くんは悪戯っぽく口の端を上げる。
たしかに、自分が選んだものを選んでもらえるのは嬉しい。
そうだ、私も角名くんにシャーペンをプレゼントしよう。なんて思った時にはもう角名くんはおらず、レジで会計をしていた。
どうして、私はこんなにも鈍臭いのだろうか。
「気持ちだけでいいよ」と会計を終えた角名くん。
「そんなに顔に出てた?」
「うん、出てた、出てた」
「そっか……」
「ありがとね」
角名くんの大きな手がポンポンと頭の上に乗る。その手はまた当然のように私の手を包み込んだ。優しく、それでいて離れないように、ぎゅっと繋いでくれる。
なんだか、恋人同士みたいだ。
手を握り返し、そうだ、恋人なんだ、と実感した。
「私の方こそ今日は本当にありがとう」
素敵な思い出を、と心の中でこっそり付け足した。
「どういたしまして」
角名くんは軽く返すと、ポケットからスマホを取り出す。
「もうちょっと一緒にいたかったけど、もう遅いね。ほら」
角名くんがスマホの画面を見せてくれる。黒い画面には白文字で19:00と表示されていた。
「もう7時なんだ。あっという間だったね」
「そうだね」
そう言った角名くんの表情がびっくりするぐらい温かくて、なんだか直視できなくなってしまう。ごまかすように言った。
「帰ろうか」
「うん、帰ろうか」
角名くんに手を引っ張られ、人通りのない貸切のような平日のショッピングモールを出口へ向かって歩いていく。
外に出ると、来る時はまだ青空が広がっていたのに、空はもう真っ暗で星が輝いていた。冷たい風が吹き、オレンジにライトアップされた街路樹がカサついた音を鳴らす。前を足早に歩いていったサラリーマンはコートの襟を立てて肩を上げていた。
すっかり街は秋の装いだった。ぶるりと体が震える。
「寒くない? 大丈夫?」
「大丈夫だよ」
来た時よりも少しくっついて、バス停まで向かった。
一緒にバスに乗り、先に私の最寄りのバス停に着いたので、そこで別れた。バスから降り、ちょっと恥ずかしかったけど、吊り革に捕まりこちらを向いて立っている角名くんに小さく手を振った。角名くんもつり革を握っていない方の手で控え目に振り返してくれた。
家に帰り、食事を終え、課題を始める前にスマホを手にする。角名くんに今日のお礼を送ろうと思ったのだ。
そうして、スマホのバックライトを点灯させたのだけど、角名くんからすでにメッセージが来ていた。
“今日はありがとう。楽しかった。また一緒に出かけようね”
鼻の奥がツンとして、画面が少し滲んでしまう。
“私も楽しかったよ。ありがとう。フォーク大切にするね”
そのメッセージだけを送り、また一緒に出かけようね、という約束を結び返すことはできなかった。