狐、その尾で縋って 後編
侑と別れた後、帰宅までの道中二人に会話はなかった。無言のまま、来た時と同じ様に二人並んで歩いて駅に向かい、二つ空いていた座席に当然の様に並んで座り、電車に揺られ、肩をぶつけ合い、最寄駅に着けば、当たり前の様に再び互いが互いの隣に立ちマンションへと向かった。
部屋に帰ると、カーテンが開いたままの窓からは茜が差していた。
ナマエが社会人になったと同時に借りて、一緒に住み始めた部屋。間取りは1LDK。決して広くはないが、二人で住むには十分だった。
生活を共にする前は別々に一人暮らしをしていたため、家電は互いのものを持ち寄った。キッチン周りはナマエが使っていたものが多い。
一緒に住み始めた頃、角名は帰るたびに部屋の嗅ぎ慣れぬ匂いに戸惑ったが、今では何も感じない。現に今も。
角名は電気をつける事なく、持っていたナマエの化粧品をダイニングのテーブルの上に置いた。静かな部屋にことりと音が響く。
「ありがとう」
ナマエが微笑みそれを掴もうとした時、角名はようやく口を開いた。
「怒らないの?」
「なんで?」
「なんでって……」
俯いた角名は、そうか。ナマエは気づいていないのか、と悟る。ナマエはきっと、角名が嘘をついていたということに気づいていない。
ナマエの認識はきっとこうだろう。侑には彼女がいると思っていた時期に”なぜか”、侑には彼女がおらず、侑はナマエが好きだった。しかし、角名と関係を持ったナマエが侑を避けたことにより、侑はナマエを諦めた。
“なぜか”のところに第三者の悪意があったということをきっとナマエは気づいていないのだ。思いもしなかったのかもしれない。
相変わらず、綺麗だね。
「俺、あの時、嘘、ついた」
俯いたまま。ナマエの顔なんて見れず、角名は自分の罪を告白する。
「嘘?」
蘇る忌まわしい記憶。
「侑に彼女いるって。嘘ついた。本当はナマエのことが好きだって聞いてた」
そして、無理矢理、彼女に触れ、犯し、自分のものにした。
「そう、だったんだ……」
呟く様にこぼされる言葉を聞く。
あぁ、これで終わりだ。終わってしまった。やっと終わってくれたと角名は胸が痛むと同時に、自分の体から力が抜けていくのを感じた。
それなのに、次に聞いた言葉は全く想像だにしていない言葉だった。
「いいよ」
思わず顔をあげる。ナマエは優しい、高二の時、角名の斜め前の席に座っていた頃と、何も変わらない、優しい笑みを浮かべてこちらを見ている。そして、続けた。
「私は今、倫太郎くんといられて幸せだから」
そう言った彼女の微笑みをまじまじと見てしまった角名は彼女の反応が不思議で不思議でならなかった。
角名が嘘さえつかなければ、侑への想いは成就できたかもしれないのに、なぜ、彼女は、怒らないのだ。その上、あろうことか、幸せを潰したと言っても過言ではない角名と一緒にいられて幸せだと、笑う。
なぜ、普通の人が普通に怒ることに対して、怒らずに笑うことができるのだ。
「俺は嘘をついたんだ。しかもその後――」
「いいよ」
「いいわけないだろ!」
そうか、これが自分のしたことだったのだと、角名はようやく理解した。
彼女は自分が何をされたか、まるで分かっていないのだ。体を無理やり穢されただけでなく、偽物の感情を植え付けられ、縛られたことを、きっと自覚していないのだ。
それはまるで、宝石だと言われ渡された、ただの石をいつまでも大切に抱えている愚かなほど無垢な女の子。
彼女が自分のされたことを自覚できなかったのは、いつまでも角名がナマエを手放さなかったからだろう。狭い世界に閉じ込められた彼女は思考することまで奪われたのだ。
自分が不幸だと知らず幸せを口にする哀れな子にナマエを貶めた。それが、角名のしたことだった。
縛られたのではなく、初めから自分の意思でここにいると思っているから、彼女は、今のように幸せだと言って笑っていられるのだろう。
そんなの、可哀想だ。
角名は、彼女が選んで自分のそばにいてくれているのなら、それでいいと思っていた。
けれど、彼女は選んでいなかった。選ぶことができなかったからだ。
自分が何をされたか、分かっていないから、彼女には選択肢がない。憎む道も、恨む道も、諦める道もあった。けれども、その選択肢を知らないから、彼女は選ぶことができなかったのだ。
彼女は選んでなどいなかった。角名が見せた夢の中に取り残されているに過ぎなかっただけなのだ。
早く、早く終わりにしなければと。この悪夢から彼女を覚ましてあげなければと、今更、罪悪感が角名を急かす。
彼女を愛して、愛して愛して愛して、狂おしいほどに愛して、頭がおかしくなるほどに愛して幸せだった。幸せにはできなかったけれど。
「ナマエ……もう、終わりにしよ」
角名は再び俯き、その言葉を口にした。顔を上げられる筈がなかった。
「終わりにしてあげる。今までごめんね」
それは情けないくらいに弱々しく発せられた。角名の手はこんなにもきつく拳を握っているというのに。
「何、言ってんの? 急に……」
「急じゃない」
「それに終わりって、何? 別れるってこと? なんで? 私のこと嫌いに――」
「違う」
そうだったら良かったのに。そうではないから終わりにしなければならないのだ。
「じゃあなんで!」
ナマエは声を荒げる。それなのに、一番聞きたくない言葉は、酷く、悲しいくらいに酷く震えた声で言うのだ。
「私は倫太郎くんのそばにいたいと――」
「違う。それは違うよ。ナマエ」
遮った角名は続ける。まるで言い聞かせる様に。誰に対してといえば、彼女に、そして自分自身に。
「ナマエのその気持ちは作り物だ。俺がそう思うように仕向けたんだ。やばいよね」
思わず吹き出した。これは自嘲だ。本当に何も知らなかったかつての自分へと、こんなにも長く自分のしたことに気づかなかった自分への。
「ナマエは俺のしたことを理解してない。理解してたらそうやって笑いながら幸せなんて言えるはずがないんだ」
だから、教えてあげるよ。君の知らないことを。
「全部偽物なんだ。全部、全部。ナマエが幸せだって思っていることも、そばにいたいと思ってることも。その感情も意思も。全部、全部俺がナマエに与えた偽物なんだよ」
それは、まるで洗脳だ。
「偽物なんかじゃ――」
「ナマエは分かっていないだけなんだ!」
角名はようやく顔を上げた。ちゃんと、彼女の瞳を見て、言わなければと思ったのだ。
「だからもう終わりにしよう。終わりにしてあげる。ナマエの前から俺は消えるよ」
良かった。言えた。ちゃんと、言えた。これできっと彼女の洗脳も解けるはず。
胸にはぽっかりと穴が空いてしまったが、ほっとした気持ちで、角名は瞳を揺らしたナマエが俯くのを見る。
最後までそんな顔をさせてごめんね。でも大丈夫だよ。ちゃんとこの先ナマエには幸せが待っているから。
角名はナマエの頭に手を伸ばしかけたが、それはもう許されないのだと思い、引っ込める。すると、深く深呼吸をしたナマエは顔を上げた。その瞳からは燃える様な赤い日差しをキラキラと反射させるものが溢れ落ちる。いつかの埃臭い部屋で見たあの時のように。だけど、あの時と違ってどうしたか彼女は笑みを浮かべていた。
どうして、まだ、そんな顔をするんだ、と角名は泣いてしまいそうになった。
そして、呼ばれてしまった。まるで幼な子が置いていかないでと、縋る様に。
「りんた――」
「もうやめてくれ!」
びくりと身を震わせるナマエから顔を背ける。もう、やめて欲しかった。
「やめてくれって何が……」
「その目で、見ないでくれ。その声で……呼ばないでくれ」
偽物の感情でもう、愛さないでくれ。
これがお前のしたことだと突きつけられているようで、気がおかしくなりそうなんだ。
「待って、倫太郎くん! ねぇ!」
後ろからナマエの声が聞こえる。
逃げる様に角名が進むはこの箱庭の先。楽園と称した檻の外へ。角名は靴に足を滑り込ませ、扉に手をかけ、部屋を出た。
「りんた――」
ナマエの言葉が途切れたのは角名が扉を固く閉ざした所為。角名は閉めた扉が開いてしまわないように扉に背を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。息が苦しい。もう、縛るものは何もないというのに。
「ごめん……本当にごめん」
両手で頭を抱え、瞳を閉じると、押し出される様にして溢れた涙が角名のまつ毛を濡らした。