香る




目が覚めると、朝の五時だった。…え、ええっ!?私は慌てて飛び起きる。こ、ここは!?隣で低く掠れた呻き声が聴こえる。

「…あ、そっか…、あのまま寝ちゃって…。」

思い出して両手で顔を覆った。…正直めちゃくちゃ良かった。何度も愛し合って絡み合った記憶が鮮明に呼び覚まされて、私はにやけた顔を必死で元に戻そうとした。

「…おはようございます。」
「わっ!?」

いつの間に起きたのか、建人さんが体を起こすと、はらりと捲れた布団が彼の引き締まった体を露にした。それを見てまた思い出して顔が燃えるように熱くなる。

「お、おはようございますっ!」
「…体は平気ですか。昨日は無理に付き合わせてしまった。」
「え、あ、大丈夫です!むしろ、建人さんは…その…、満足できましたか…?」
「…いいえ。」
「え。」
「…正直、もっと小春を悦ばせるつもりでしたが、私も久方振りの行為であまり余裕がなかった。次はもっと満足させます。」
「わ、私はもう十分満足ですから…!」
「…あまり可愛ことを言うと、知りませんよ。」

大きくてゴツゴツとした手が私の頬を撫でる。私はなんだか恥ずかしくて、照れ隠しにその手にすり寄った。

「一度自分の家に戻るでしょう。」
「そうですね…、着替えないと。」
「私も、部屋を片付けてから会社に行きます。時間に余裕もあるので、車で送りますよ。」
「え、いいんですか?」
「いかにも行為後という顔をしたあなたを人目につけたくない。」
「え!?ど、どんな顔ですか!?」

ベッドから出て、落ちていたショーツを穿く。建人さんも自分の服を拾って、リビングへ向かった。リビングは昨日の私の抜け殻が散乱していて、思い出してまた恥ずかしくなった。

「す、すみません、すぐ服を着ますね。」
「いいえ、私には目の保養なのでそのまま過ごしていただいて結構。」
「このまま帰れと…?」
「冗談です。」

真面目なトーンで冗談を言う建人さんが可笑しくて笑った。彼もひとまず昨日の服を着て、置きっぱなしになっていたカップをキッチンに運んでいる。服を着終わると荷物を確認して、洗面所を借りた。髪を手櫛で整えて、口を漱ぐ。化粧も崩れている…。車で送ってくれるという言葉に甘えるとして、少しだけ化粧を整えた。帰ったらすぐシャワーを浴びて、会社に行く支度をしなくては。

「建人さん、準備できました。」
「では行きましょう。」

財布とスマホ、鍵をポケットに入れた建人さんが、私の額にキスをした。思わず顔がにやけて、それを見た建人さんが柔らかく笑った。…好きだなぁ、って思って、私も彼の肩に掴まって、めいっぱい背伸びをしてキスをした。靴を履いて部屋を出る。建人さんの広い背中を追いかけて、隣に並んで、手を繋ぐ。絡めた長い彼の指が私の手の甲をほとんど包んでしまう。

「建人さん、愛してる。」
「私も愛しています、小春。」

エレベータが来るまで、何度もキスをした。

「次の休日、小春に買いたい物があります。着いて来てもらえますね。」
「勿論です。」

エレベーターが私達を運ぶ。エントランスを抜けて駐車場に入ると、彼が車のキーを押した。ピッピッと音を立てて居場所を伝えたそれに乗り込む。住所を伝えると、彼はカーナビを操作した。

「出発します。」
「よろしくお願いします。」

彼の運転は凄く穏やかで、心地がいい。先を見据える横顔をじっと見つめていると、一瞬だけちらりと私を見る。

「そんなに見つめられると事故ります。」
「もう、物騒なこと言わないでくださいよ!」
「いえ、冗談ではなく。私もあなたを見つめたくなる。」

低く落ち着いた声でそんな事言われるとは思ってもいなかった。私は大人しく前を向いた。フッ、と隣で笑う声がして、また私の事を揶揄ってる、なんて嬉しくなった。私の住んでるマンションが近付いてくると、名残惜しくて思わずため息が漏れた。

「建人さん、もうすぐ着いちゃいますね。」
「ええ。」
「…離れたくないなぁ…。」
「そうですね。」
「…今日はお仕事何時までですか?」
「定時で上がれれば、それで。時間外労働は好きではない。」
「…今日も、仕事の後に会えますか…?」
「勿論。この前のレストランで食事でも。」
「あ、ずっと気になってたんです!今度こそ食べましょう!」
「では予約をしておきます。終わったら連絡します。」
「…あれ、そう言えば私たち、連絡先の交換しましたっけ…?」
「……。」

ゴソゴソとカバンからスマホを取り出して確認しても、七海建人の文字はない。車が停まった。外を見れば私の住んでるマンションの前だった。

「…着きました。」

建人さんが私を見る。言うまでもなくキスをして、名残惜しくも離れる。彼がスマホを操作して、私にメッセージアプリの画面を見せた。

「登録してください。」
「はい!」

笑顔でそれを登録して、私からメッセージ画面にスタンプを一つ。すぐに既読がついて、よろしく、と一言返って来た。電話番号とメールアドレスも送って、彼から届いた分も登録した。嬉しくなって、もう一度キスをねだる。優しい口付けが返って来て、胸がキュンと締め付けられた。

「建人さん、終わったら連絡しますね?」
「私も連絡します。」
「送って頂いてありがとうございました。」
「どういたしまして。では…また後で。」
「はい、また後で。」

ゆっくりと車を降りる。振り返ると私を見つめる切れ長の目が、柔らかく微笑んでいた。小さく手を振ってドアを閉める。私がマンションの中まで入るのを待っているらしい。何度も振り返って手を振れば、漸く小さく振り返してくれた。エントランスに入る。まだ車から私が見えているらしい。エレベーターに乗り込むと、握っていたスマホが小さく震えた。

『愛しています。』

エレベーターの中で、私は一人幸せを噛み締めた。



―――七海建人の結婚記録―――
第一部 完




 


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