濡れ女




禍々しい呪力が病院を覆っていた。すぐさま伊地知君が帳を下ろす。避難誘導は既に行われているらしく、病院から患者を連れて出て行く病院関係者の姿がちらほらと見えた。避難している人の中に小春の姿はない。

「な、七海さん、お気を付けて。」
「ええ。」

病院内に入る。今の私は冷静さを欠いているだろう。外したネクタイを手に巻き付けると病棟に向かう。心臓が早まる。小春の病室は、

「…水…?」

上の階に上がるにつれ、まるで蛇が這ったように波状に床が濡れていた。そして呪いの気配を辿り、着いた病室には七海小春の文字。ドアを開ける。一気に濃くなった呪いの気配に、顔を顰めた。

「…小春。」

長い蛇の胴体がベッドに寝ている小春の体に巻き付いていた。蛇の胴体の頭にはびしょ濡れの女の上半身がついており、病室に入った私に襲い掛かった。握り締めた拳を女の顔目掛けて振るう。今の私はとても怒っている。

「私の妻に手を出した事、後悔させます。」

何度も殴り、その胴体をなまくら刀で7:3に切り落とした。消えて行く呪霊を横目に小春に駆け寄る。顔色が青白く、苦しそうだ。その手を握ると氷のように冷たい。

「…小春、起きてください。」

何故、彼女が再び呪われてしまったのか。誰が彼女を呪ったのか。血の気のない頬を撫でると、しっとりと濡れていた。青白い唇に触れ、キスをした。小春の瞼が震える。

「…ん…、」
「小春!」
「…ぁ、れ…、」
「分かりますか、小春。」
「…けん、と、さん…、」

ゆっくりと瞼を開けた小春に覆いかぶさるように抱き着いた。よかった、本当に。

「わ、たし…、どうしたんですか…?」
「…倒れたと聞きました。」
「…倒れた…?」
「何があったか、思い出せますか。」
「…建人さんに、カスクートを…、買って帰ろうと…、して…、」

ベッドの傍に見覚えのあるパン屋の紙袋が置いてあった。

「…私の為に、ありがとう…。」
「…一緒に、食べたかったから…。そしたら…、お坊さんが…、」
「…お坊さん、」
「私に…、気になるものが見えるって…、」

小春の顔色は相変わらず青白い。力なく瞼を閉じた彼女の身体を抱き上げ、荷物を持って病室を出た。病院の外に出て帳を解くと、待機していた伊地知君が駆け寄った。小春の荷物を彼に預け、車のドアを開けてもらう。

「急いで高専へ。家入さんに診せます。」
「分かりました。」

小春を車に乗せて高専へ向かった。スマホを操作して、家入さんに電話を掛ける。3コール目で繋がった。

『もしもし、どうした。』
「家入さん、今どこですか。」
『高専にいるよ。怪我?』
「いえ、至急診て欲しい女性がいます。」
『…いいよ、連れてきて。』
「ありがとうございます。」

高専に向かう間も小春の体は冷えたままだった。私の背広をかけ、包むように抱き締め、その背中を擦る。伊地知君もなるべく近道を通って運転してくれている。高専に着くと再び小春を抱えて医務室へ急いだ。医務室の前に家入さんが立っていた。

「来たか。ベッドに寝かせて。」
「はい。」
「伊地知に聞いた。七海の嫁さんなんだって?服、脱がせるけどいいよね。」
「…はい。小春を頼みます。」
「外で待ってて。」

言われた通り医務室の外で待つ。扉の隣で壁に背をつけて大きく息を吐いた。確かに五条さんが呪いは祓った。それは間違いないし、私も小春の呪いが消える所を確かに見ている。

「…お坊さん…。」

小春を呪っていた寺の者か?気になるものが見えると言われた…?私が出張に行っている間に呪われるようなことがあったとでも言うのか。…しかし、あの残穢は…。数分後、家入さんが医務室から出てきた。

「入って。」
「…小春は、」
「安定してるよ。強い呪力にあてられたって感じかな。五条からも聞いてたけど、例の呪われた貴族の子なんだって?あ、コーヒーでいい?」
「…ええ、頂きます。確かにあの時、五条さんと共に解呪した筈です。私の知る限り、それ以降呪われるような事もなかった。」
「…彼女に何か聞いた?」
「…お坊さんに会ったと。」
「お坊さん…。」

家入さんからコーヒーの入ったカップを受け取る。揺らめく黒い水面に私の顔が映っている。

「…あまり自分を責めるなよ。」
「…ええ。」



 


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