巴蛇と孔雀




朝、目を覚ますと建人さんが私を抱き締めて眠っていて、思わず笑みが零れた。その頬に、唇に、キスをして、起こさないように彼の腕と布団から出る。昨日は寝る時間が遅かったこともあって、体は少し気怠さを残している。朝食の準備をし、昨日建人さんに押し付けた、私が買ったバゲットを少しとカスクートを食べた。少し硬くなったパンを噛むのに苦戦しながらも、美味しく頂くと仕事に行く身支度に取り掛かる。スマホの位置情報をオンにして、建人さんに共有するように設定をした。…それと、念の為にあの御守りを持って行くことにした。藤波さんが最後にくれた御守り。

「藤波さん、私に力を貸してください。」

両手で祈るように握り締めると、それをポケットに入れた。建人さんに置手紙を書いて、最後に彼の頬に軽くキスを落とす。連日呪術師としてのお仕事を頑張っていたし、昨日は私の事で心配もかけた上に夜遅くまで起きていたから、建人さんは全く起きない。七三に分けられていない彼の直毛を優しく撫で、幼く見えるその寝顔を写真に収めた。家を出る時間が来て、名残惜しいけど会社に向かう。家を出てからあのお坊さん…夏油って人がいないか注意しながらも無事に出勤すると、いつも通りに仕事に取り掛かる。入り口付近に人がいない時は先輩と他愛もない話をしながら、建人さんからの連絡を待った。11時を過ぎた頃、建人さんからメッセージが来て、私は飛びつくようにスマホを手に取った。メッセージを返しながら緩む頬。早く会いたい。一緒にお昼をというお誘いに胸を躍らせ、先輩に揶揄われながらも仕事をした。

「お昼だー!七海さん、今日一緒にランチいかない?」
「あ…すみません、実はけん…旦那が近くに来てるらしくて、一緒にご飯を…、」
「えー!もう…ラブラブすぎて羨ましい…。私も新しい彼氏欲しい!」
「えへへ、すみません、お先に外出ますね?」
「仕方ない、また後でね。旦那さんとのランチ楽しんで〜。」
「ありがとうございます!」

会社の正面玄関に向かいながら建人さんにメッセージを送る。ドゥトールへ向けて歩いていると会いたかった彼の姿が見えて、顔が緩んだ。

「建人さん!」

小さく手を振りながら駆け寄ろうとした時、足元に違和感を感じた。建人さんが驚いた顔で私に手を伸ばしていて、私も彼に手を伸ばそうとした。けど、手は伸びなかった。それどころか、体が全く動かなくて、視界も真っ暗になって、息が苦しくなって、何、これ、一体何が…、まさかまた…、

「…痛っ、」

素肌が焼けるようにヒリついた。ここは、一体…。

「建人さん!…建人さん!」

大きな声で彼を呼ぶけど、外の音は何も聞こえない。身を捩って、御守りを取ろうとするけど、腕が上手く動かせない。無理に動かすと関節がおかしくなりそうな程に狭くて体が締め付けられている。まるで…何かに飲み込まれたように。…夏油って人の仕業なのかな…。…私、死んじゃうのかな…。こんなに苦しいまま、死んじゃうのかな…。建人さんの顔を思い出す。出会って三日でプロポーズされて、四日目で結婚しちゃって、でもちゃんと気持ちは通じ合えて、彼のおかげで私は生きてる。あーあ、私、ウェディングドレスすら選べてないのに…。指輪だって、まだ完成すらしてないし、式場だって…、

「…死にたくないよ…、助けて建人さん…、」

涙がぽろりと零れる。…だめだ、あきらめちゃだめだ。きっと建人さんが助けてくれる。彼を信じて、私は私ができることを。絶対に、生きて、建人さんに会うの!痛みに涙が零れてもあきらめないで!少しずつ力を入れて腕をポケットに向けて動かす。手を広げようとすると指がゴキリと嫌な音を立て、激痛が走った。痛い、痛い、痛い!苦しい締め付けの中で、なるべくゆっくりと大きく息を吸い込む。少しでも痛みに耐えて、私、頑張って私!

「…っ!」

ポケットまで手が届いた。指は折れたかもしれない。うまくポケットに指が入らなくてもどかしい。突如空間が凄い速さで揺れて、体がさらに締め付けられる。頬がひりひりとしてきた。苦しい。痛い。助けて。怖い。死にたくない。息が、

「小春…っ!」

…建人さんが私を呼んでいる幻覚まで聞こえてきた。あーあ、もう会えないのかな…。最後に愛してるって、伝えたかったな…、

「けんとさん…、」

意識が朦朧としてきた。…だめ、まだ眠っちゃだめ、

「聞こえますか小春…っ!」

藤波さん、力を…貸してください…、私、建人さんをおいて…死ねない…。最後の力を振り絞って、御守りを指で摘まんで、

「ぁ…、」

痛みで震える指が御守りを離してしまった。…終わった…、もう力が出ない…。息もできない…。

「…ごめ…んね…、」

目を閉じようとした時、ふわりと何かが優しく包んでくれた気がした。



...




巨大な蛇が私に向けて飛び掛かってくるのを避けながら、隙を見てなまくら刀を振るう。蛇の体はしなやかにそれを避け、攻撃を当てることは叶わない。何度も小春の名を呼んだ。絶対に護らなくては、助けなくては、絶対に…!

「小春…っ!」

何度彼女を呼んだだろうか、突如巨大な蛇は動きを止めた。それどころか、彼女を含んでいると思われる膨れた腹が更に膨れ、そして、

「なっ、」
「…これは、予想外。」

蛇の腹が弾け、中から白い大きな孔雀が飛び出した。白孔雀が小春を護るように大きく羽を広げている。

「折角中国で見つけた巴蛇はだを…。けど、これはこれでいいものを見たな。ありがたく頂こう。」

夏油さんが白孔雀に手を伸ばす。それをさせまいと標的を彼に移し、斬りかかる。近接戦も強いこの人に敵うかどうかなど、どうでもいい。あの孔雀から感じる呪力は間違いなく、藤波さんの神社で感じたものだ。きっとあれは、藤波さんの最後の御守りに入っていたのだろう。白孔雀がけたたましく鳴き声を上げると、夏油さんに向けて突風が吹き荒れた。夏油さんの体が途轍もない勢いで飛ばされ、何処まで飛ばされたのか私には全く見えなかった。帳が上がり唖然としていると、白孔雀は優雅にその大きな羽を揺らしながら私の方を向く。

「小春…!」

小春に駆け寄り、その身体を抱き上げた。白い肌の所々が赤く色を変えて痛々しい…。すぐに家入さんに電話を掛けた。ワンコールで繋がったそれに、私は間髪入れずに口を開く。

「もしもし家入さん、至急小春を診てください。お願いします。」
『落ち着きなよ。報告を受けたから、今伊地知と五条とそっちに向かってるから。』
「ありがとうございます。急いでください。」

電話を切ると、小春の無事な方の頬をそっと撫でた。幸い呼吸はしているので気を失っているだけだろう。白い孔雀は羽を閉じ、小春の顔を覗き込んだ。その様子を見ていると、彼女の額に優しく嘴で触れた。ぴくり、と小春の瞼が震え、ゆっくりとその目が私を、

「…いき、てる…?」
「小春…、良かった…、」
「…けん、とさん…、また、ないてる…?」
「…誰のせいですか。」
「…ふふ、わたし…、」

ボロボロな体を優しく抱きしめる。小春は力なくされるがままで、痛みに小さく息を漏らす。

「今、家入さんがこちらに向かっています。もう少しだけ、我慢できますか。」
「…建人さんが…ちゅーしてくれたら、治るかも…、」
「…いくらでもします。」

二人とも泣いていた。そっと口付けを落とし、優しく唇を啄む。見つめ合うと、白孔雀が再び鳴き声を上げた。

「…藤波さん、ありがとう…。」
「…やはり、そうでしたか。」
「御守り…、持っててよかった…。」

小さく笑った小春に、もう一度キスをした。白孔雀がもう一度鳴き声を上げ、大きく羽を広げて飛び立った。光の粒となって消える白孔雀を眺めながら、二人で抱き合い、彼女が生きていることに心の底から感謝した。




―――七海建人の結婚記録―――
第二部 完




 


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