忍び寄る




雄人も一歳半を迎えて自分で歩けるようになった。その日はたまたま会社のある方向に用があったので、雄人を連れて昼休みの時間帯に先輩に会いに行った。先輩は凄く喜んでくれて、雄人を見ると可愛い可愛いと言ってくれた。先輩も新しい彼氏ができたらしく、関係も順調らしい。結婚も考えているそうだ。私が会社を辞めてから、受付に私の事を訪ねてきた人がいたらしい。名前は分からないそうだけど、よく出入りしていた清掃業者の人だそうだ。…誰だろう。

「なんか暗い感じの人でさ、話す時もぼそぼそ喋るの。七海さんのファンだったんじゃない?…気を付けてね?」
「ファンだなんて…。会社も辞めて一年は経ってますし、そうそう会う事はないと思いますけど…。」
「ストーカーになってたりして…。」
「…いやあ…ないですよ!」

そんな話をして先輩と別れた。建人さんは今日、日帰りの任務だと聞いていたので、あのパン屋にカスクートを買いに行った。久し振りに訪れたのに、あの店員さんは私の事を覚えてくれていた。雄人の事を紹介し、少し世間話をして、カスクートを二つとクッキー、食パンを一斤買って店を出る。雄人が転ばないようにと追いながら歩いていると、突然呪骸が唸るような音を発したので、私は足を止める。雄人が驚いてぐずり出し、その場に尻もちを着きそうになったので、慌てて体を抱き上げた。音が次第に大きくなり始める。雄人を抱えたまま建人さんに電話を掛けた。音が近いと、呪力が近いと言っていたから、少しでも遠ざかるように早足で歩いた。建人さんが電話に出ない。まだ任務中だろうか。位置情報をメッセージで送ろうとしていると、手が滑ってスマホが地面に落ちた。急いで拾い上げる。画面に少しヒビが入ってしまっていた。

「…建人さん、お願い…出て…!」

位置情報を送り、何かに追いかけられていると送った。付かず離れずの距離にいるのか、音は鳴りやまない。雄人がとうとう泣き出して、それをあやしながら歩き続けた。数分後、建人さんから折り返しがあり、急いで通話ボタンをタップする。

「建人さん!」
『小春、無事ですか!』

建人さんの声に、私は少し安心して、涙が零れた。

「ずっと、着いて来てるみたいで、音が止まなくて…、雄人も泣き止まないし、」
『今そちらに向かっています。私が着くまでもう少し頑張れますか。』
「っ、…はい、」
『伊地知君、飛ばしてください。…小春、必ず助けます。落ち着いて、…近くに大きい神社がありますね。そこに向かって、着いたら敷地内を歩き回って時間を稼いでください。電話はこのまま繋げたままで。良いですね。』
「は、い…っ、」
『大丈夫です、大丈夫。』

建人さんに言われた通り通話は切らずに、雄人を抱え直して足早に神社へ向かう。細い歩道には人通りが多く、ぶつからないように避けながら歩いた。雄人も電話口に建人さんの声が聞こえたからか、少し落ち着いたらしい。神社に着くと、作法もそのままに境内へ向かった。

「神様ごめんなさい、今は許してください…っ、」

音は鳴りやまない。神社の裏手に回り、息を整える為に少し立ち止まる。脚に力が入らず何度も躓きそうになった。何が私たちを追って来ているのか、見えない恐怖で体が震えていた。電話口から建人さんが私の名前を呼んでいるのが聞こえ、スマホを耳に当てる。

「神社、着きました…っ、」
『もう間もなく着きます。伊地知君、ここで。念のため帳を。』
『分かりました。』
『小春、今どのあたりに、』
「神社の裏手です。」
『すぐに行きます。』

電話口から建人さんが車を降りたのだろう、ドアを開け閉めする音が聞こえた。雄人を抱き締めながら、再び大きくなった音にハッとする。振り返ると、男の人が立っていた。…神社の人ではない。だって、その恰好はうちの会社に出入りしていた清掃業者のつなぎ姿で、男が、笑って、

「やっと…、見つけたよ…、ニヒ、ヒヒ…、」
「…こ、来ないでください。」
「…誰の子供だよォ、急に辞めちゃってさあ…、探したよォ。」
「来ないで!」

雄人を抱き締めて後ずさると、男がゆっくりと近付いて来た。音がさらに大きくなり、雄人も再び泣き出した。男が顔を顰めて雄人を睨みつけている。

「うるさい、うるさいうるさいうるさい!小春ちゃん、いつの間に子供なんて作ったの…?俺にいつも笑いかけてくれただろ?俺のこと好きだったんだろ?な?」
「来ないでください、それ以上近付かないでっ!」
「小春ちゃん、俺さぁ、ずっと探してたのにさ、あの女全然教えてくれなくてさ、そしたら今日小春ちゃんの会社の前でさ、君を見かけてさ、運命だと思ったよ…!」

男が足早になったため、私は背を向けて走り出すも髪を掴まれてしまう。

「綺麗な髪だなあって思ってたよ。食べたいなぁ…。」
「いっ…離して…っ!」
「小春ちゃん…へへへ。」
「建人さん!」
「……誰だよそれェ、子供の親かァ?このビッチめ!子供殺してやる!」

男の手が雄人に伸び、私は雄人を護るように背を向けた。その時、

「私の妻を侮辱した事、許しません。汚い手を離してください。」
「建人さん…っ!」
「小春、雄人、怖い思いをさせましたね。すぐに助けます。」
「お、オマエェ誰だよ!」
「聞こえませんでしたか、小春は私の妻だと言いました。」

建人さんがたじろぐ男の腕を掴んだ。ミシミシと骨が軋む音がして、男が私の髪を手放して泣き喚く。私は建人さんの後ろに避難した。

「…厄介なものに憑かれているようですが、小春に触れた事、後悔させます。」
「ヒィッ!」

建人さんが背中から武器を取り出した。前に少しだけ聞いたことがある、呪具という武器らしい。建人さんが男の背後に向けてそれを振るうと、男はその場に倒れて動かなくなった。ほっとして腰が抜けてしまった私を建人さんが抱き留めてくれた。

「小春、雄人、無事でよかった…。」
「建人さん…っ、」

男は警察に引き渡された。どうやら私以外の女性にも付き纏いやストーカー行為をしていた前科があるらしく、そのまま逮捕された。呪霊のせいでもあったらしいけど、建人さんはそれを警察に伏せていた。私もとても怖い体験をした事もあり、その事に関しては何も言わなかった。建人さんは任務の報告があったらしいけど、伊地知さんが代わって報告してくれるとの事で、3人でタクシーで家に帰った。家に着いてすぐ、彼にこれでもかという程きつく抱き締められて、私も建人さんの腕の中で泣いた。その日は彼の腕の中で泣き疲れて眠った。



 


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