悪魔のいない世界で




小さな手の間、ひなこが生まれる前の10月31日のお話。よって小春は妊娠中です。※




2018年10月31日、その日小春との4回目の結婚記念日に…私は死んだ。

『虎杖君、後は頼みます。』

たった15歳の子供に呪いの言葉を残して。




...




「建人さん…?」
「ん…っ、」

小さく体を揺さ振られて意識が浮上する。ああ、またこの夢か…と憂鬱な気分に溜息が漏れた。

「大丈夫ですか?魘されてましたけど…、」
「…ええ、大丈夫です。」

掠れた声でそう告げた私に伸びてきた手。小春はそっと私の頬に手を添えた。温かい手だ。ゆっくりと瞼を持ち上げると、霞んだ視界が少しずつ鮮明になっていき、心配そうに私を見つめる小春の顔が見えた。朝日がカーテンの隙間から差し込む薄暗い部屋の中で見えた小春は、前世の頃と同じ顔、同じ髪型、同じ温もり、同じ声。それに比べて私は、前世よりも歳をとった。体は前世と同じほど鍛え、今では毎日パンを捏ねたり重い天板を使うこともあり、更に筋肉がついた方だと思う。前世に比べれば枕元の抜け毛も増えた気がするが…。しかし今では雄人とも再会…と言っていいのだろうか。再び私と小春との間に生まれてきた愛しい我が子に加え、いつか叶うならと願っていた2人目も小春のお腹にいる。前世に比べかなり幸せな時間を、家庭を、築けているのは明らかだ。呪霊もいない。殉職する者もいない。離反する者もいない。前世での出来事を割り切って、今は誰もが何事も順風満帆に過ごせているというのに…。10月31日という今日、前世と変わらず私と小春の結婚記念日であり、そして前世の私が死んだ今日。小春に再会するまでは何度もこの日が来るのが怖かった。またいつか、小春に再会する前に今の私は死んでしまうのではないかと、あの日見た最期の景色を何度も夢に見ていた。

「今…何時です…。」
「えっと…6時です。今日はお店もお休みにしてますから、もう少し寝てて大丈夫ですよ?」
「…ええ、そうですね。小春ももう少し寝ましょう。」
「ふふっ、はい。」

寝室には私と小春が寝るベッドと、雄人が眠るベッドが置かれている。雄人は少しずつ1人のベッドで眠る練習をして、いずれ2人目が生まれた頃には、再びベビーベッドが置かれる事だろう。2人が大きくなれば、いずれ大きなベッドを2つくっ付けて4人で並んで眠れるようにするべきか…とも考えるほど、幸せなハズだ。小春と再会してから、あの夢は見なかった。なのに、なぜ、今日。

「…大丈夫ですか?」

再び訪ねる小春の心配そうな声に、私はその体を優しく抱き寄せて小さく返事を返した。またこの愛おしい存在を、家族を、残してしまう日が来るのかと思うと…眠気が残っているハズの頭が少しずつ冴えていく。ああ、厭な夢だ……。

「…もしかして、昔の夢でも見たんですか?」
「…何故そう思うんです、」
「建人さん、泣きそうな顔をしてるから。」
「……そうでしたか。小春には隠せませんね。」
「隠さないでいいんですよ。私もたまに、あの日の事を思い出すんです…。でも、もうそんなことは起きないでしょう?だって建人さんはもう呪術師じゃなくて、ただのパン屋さんですから。」
「…フッ、そうですね。私はただのパン屋さんです。ありがとう、小春。」

抱き寄せたその額にキスを落とせば、擽ったそうに笑う声。ああ、そうだ。私はもう呪術師ではないのだから、前世の記憶に振り回されてなるものか。こんなにも幸せな時間と家族を残して死ねるものか。小春の言葉に安心したと同時に、私の背中に回った腕が優しくトントンと叩くリズムに自然と瞼が重くなり、私はその微睡みに静かに身を任せた。




再び目を覚ました時、私の腕の中に小春はいなかった。慌てて体を起こしたものの、ドア越しに聞こえる包丁の音にホッとする。身じろいだ雄人の姿が目に入って、そっと寝顔を覗いて見れば口元には涎の痕が見えた。微笑ましく思いながらも、その体を優しく揺らして名前を呼ぶ。壁にかかった時計はもうすぐ9時を指そうとしていた。今日はいつもよりも皆寝坊したなと思いながらも、それすらも幸せな時間だと思える。

「雄人、起きてください。」
「ん〜〜ぅ、」
「ほら、抱えますよ。」
「ぱぱぁ…?」

寝惚けた雄人を抱えてリビングに向かえば、私達に気付いた小春が微笑ましそうに笑った。雄人を下ろしてやると目が覚めたのか、小春に駆け寄る姿に私も微笑ましくなり頬が緩んでいく。

「ママ!」
「おはよう雄人、パパと一緒に顔洗っておいで?」
「うん!」
「私もすぐに手伝います。」
「ふふっ、ありがとうございます。」

雄人ともに洗面所に行き顔を洗って歯を磨くと、再びリビングへ戻った。今日は結婚記念日ということもあり、店には数日前から休みを知らせる張り紙を張っている。雄人はテレビをつけてソファに座った。教育番組を見始めた小さな頭が、ソファの背凭れ越しに揺れるのを見ながら手を洗うと、小春と共に朝食を作った。小春のお腹は日に日に少しずつ大きくなっていくのが分かる。悪阻は安定期に入ったのか落ち着いたらしい。初めの頃は悪阻で何度も吐いていてはベッドに戻る日が続いていたが、落ち着いてからは食欲も少しずつ戻って来た様子で安心している。雄人の時とは違って辛そうな小春を見る度に、何度もその辛さを私が変わりに請け負えてあげられたらと思った。出来上がった朝食をテーブルに並べ、小春を先に座らせると雄人とともに再び洗面所へ向かう。手洗いうがいを済ませて食卓に着けば、いつもと変わらない幸せな朝食タイムになった。

「雄人、今日はどこに行きたい?」
「ん〜っとね、ん〜、どうぶつえん!」

前世でも、雄人は動物園が好きだった。それを思い出して小さく笑った私の隣で、小春も同じように笑った。朝食を食べながら、見たい動物の名前を上げる雄人。私たちはそれに頷き、時折汚れた雄人の口元を拭う。

「洗い物は私が。」
「ありがとうございます。雄人、歯磨きしてお着替えしようか。」
「する!」
「小春、少し休んだ方が、」
「大丈夫ですよ、今日は調子がいいみたいですから。」
「…あまり無理をなさらず。」
「はい!雄人、おいで。」

雄人の手を引き洗面所に向かう後ろ姿を微笑ましく眺め、洗い物に取り掛かった。雄人も小春のお腹の中にいる存在を楽しみにしている。小春の手伝いを買ってでたり、小春を気遣って自分で色々なことに挑戦する姿を、私も小春も少しハラハラしつつも見守るようにした。雄人はすっかりお兄ちゃんになった気分らしい。小春のお腹を優しく撫でながら「ゆうとがおにいちゃんだよ、」と声を掛ける姿も何度も見てきた。幸せな時間がこれからももっと続けばいい。2人目が生まれればまた慌しくなるだろうが、頼もしい友人と息子もいる。ああ…、なんと幸せな人生か…。

「雄人歯磨き上手だね〜!流石お兄ちゃんね!」
「ん〜!」

雄人が1人で歯磨きをしているのだろう。2人の声にまた小さく笑みが漏れた。洗い物を終えて私も洗面所に行くと、雄人の仕上げ磨きをしている小春と目が合った。そして嬉しそうに笑う小春に私も静かに笑みを返す。

「雄人、歯磨き上手になりましたよ!」
「それは素晴らしいですね、雄人。」
「ん〜!」

口を開けたまま私にピースを返す雄人に、そっとその頭を撫でてあげる。子の成長というのはとても早い。前世の私は雄人が3歳の頃までしか知らない。今の雄人はもう4歳。これからも私が傍で、父親として、雄人とお腹の子供の成長を見ながら歳を重ねていけると思うと、とても感慨深いものだ。仕上げ磨きを終えてうがいをする雄人を見ながら、私も小春も歯を磨いた。口元についた水を、歯ブラシを咥えたまま拭きとってやれば雄人はきちんとお礼を言ってくれる。良い子に育ったものだ。きっと前世でも、小春の愛情を受けて優しい子に育ったことだろう。

「ゆうとじぶんでおきがえする!」
「ん、」

パタパタと足音を立てて洗面所を出て行く小さな背中。口に含んでいた泡を吐き出した小春が、その背中に走ると危ないと声を掛けた。ああ、こういう風に…前世でも毎日過ごしていたのだろう、そう思うと私がここにいることがなんだかとてもイレギュラーに感じてしまう。そう思う者は私以外にいるハズもないのだが。

「建人さん?」
「…ん?」

吐き出した泡を水で流しながら、鏡越しに小春が私に声を掛けた。

「大丈夫ですか?」
「…フッ、」

不安そうな顔をさせてしまった。今朝見た夢のせいだろう。小さく頷くと、小春は心配そうに眉を落とした。大丈夫です、そう意味を込めて小春の腰に手を添える。うがいを始めた小春に、少しだけ後ろに下がってその背中を静かに眺めていた。今はもう、私はただこの幸せを満喫するだけでいいのだ。何も考えず、家族の笑顔を、幸せな時間を、ただ、満喫する。小春にタオルを渡し、私もうがいを済ませると2人で雄人の部屋へ向かった。宣言通り、雄人は自分で着替えを始めたようで、私と小春はそれをドアの陰から覗き込みそっと見守った。

「できたよ!」

着替えを終えた雄人が自信満々にそう言ったが、ズボンが前後ろ逆になっていて私と小春は小さく笑いながらも、まずは彼を褒めてあげた。少しずつ、こうやって成長していく姿を見るのが楽しくて、何より幸せだ。

「雄人、ズボンのポケットが前にありますよ。」
「あ!」
「ふふふっ、でも上はちゃんと着れてるね、偉いね〜。寒くない?」
「うーん、ジュルトラマンどこぉ?」
「ん〜、確か昨日畳んでおいたハズだけど…あった!じゃ、バンザイしよ!」
「ばんざーい!」

雄人の着替えを終えると、私と小春も着替えを済ませた。小春が化粧をしている間、私は雄人にハンカチとティッシュを持たせた。肌寒くなってきたこともあり、寒くないように帽子も被せて支度を済ませる。3人で玄関で順に靴を履いて家を出た。車に乗り込み、小春が雄人のチャイルドシートをセットしたことを確認し、車をゆっくりと発進させた。マタニティークッションに座る小春に時折声を掛け、気分が悪くならないようにコンビニに車を停めて休憩を挟みながら動物園へ。動物園について早々、雄人は楽しそうにはしゃいだ。マップを手に雄人が見たいと言っていた動物を見て回り、昼は休憩所で軽食をとった。小春の体を気遣うように何度も「ママだいじょうぶ?」と声を掛ける雄人に、小春も優しい笑みで大丈夫だと返している。スマホで2人の写真や動画を撮り、時折私も入って3人で。少しずつ増える思い出と記録。小春も私達にスマホを向けて、楽しそうに笑っている。雄人が見たがっていた動物たちを一通り見終えると今度はお土産屋に向かった。

「雄人、欲しいものはありますか?」
「…キリンさん!」
「では、それを買いましょう。クッキーもありますよ。」
「ゆうとはね、キリンさんだけでいい!」
「チョコもあるよ?お菓子はいいの?」
「うん!キリンさんだけ!あとね、こっちはね、あかちゃんにあげる!」

そう言ってパンダのぬいぐるみを手に取った雄人に、目線を合わせるようにしゃがんでそっと頭を撫でた。雄人が手にしたぬいぐるみを受け取って、小春と雄人にはそこで待っていてもらった。キリンとパンダのぬいぐるみと、雄人の好きそうなお菓子やパズルも一緒に手に取ってレジへ進む。支払いを済ませて袋に詰められたそれらを手に2人の元へ戻ると、雄人を挟んで3人で手を繋いで動物園を後にした。

「着きましたよ。」

帰宅後、結婚記念日に恒例となった、カスクートとパンプキンパイを3人で焼くことに。雄人も一緒に出来るよう、そして小春も座って休めるように、キッチンではなく食卓テーブルでパン生地を捏ねた。3人で作ったカスクートとパンプキンパイはとても美味しく、優しい味だった。雄人にはカスクートは固すぎることもあり、カスクートとは別に生地の柔らかい小さなコッペパンを焼いた。私は吸血鬼の、小春は魔女の、雄人はカボチャの仮装をして3人で食べる夕食。来年からは4人になることだろう。

「いただきます。」
「いただき!まーす!」
「いただきます。」

3人で夕食を食べ、動物園で買ったぬいぐるみを袋から取り出すと、雄人は嬉しそうにそれを抱き締めて笑った。

「これも雄人にプレゼントです。」
「わぁ、よかったねぇ〜!」
「…いいのぉ?」
「ええ、いつもパパとママのお手伝いをありがとう。雄人はもういいお兄ちゃんですね。赤ちゃんもきっと、雄人みたいな優しくていいお兄ちゃんがいてくれて喜んでいますよ。」
「うん!パパ、ママ、ありがと!」
「ママも、雄人にありがと!建人さんもありがとうございます。」
「こちらこそ、雄人、小春、私の家族になってくれてありがとうございます。」

雄人を挟むように3人で抱き合った。鼻の奥がツンとして視界が滲む私に気付いた雄人が、

「パパ、こんどはママのこと、いっしょにまもろうね!」

そう言って笑った。頬を伝う熱いものを拭うのも忘れて、ただただ2人を抱き締めた。小春も小さく鼻を啜っている。雄人は嬉しそうに私と小春にその短い腕を回していた。雄人に前世の記憶があると薄々感じてはいたが、確信を持つようなことを言われたのは初めてだった。泣きながら、ありがとうと伝えれば、また雄人は嬉しそうに笑った。




夕食の片付けを済ませて3人でお風呂に入り、寝支度を済ませて寝室へ向かった。雄人を挟んで3人でベッドに寝転がると、遊び疲れたらしい雄人はすぐに寝息を立て始めた。私と小春は雄人の寝顔を静かに眺めながら、時折互いに見つめ合い、キスをして、静かに笑い合っていた。今朝見た悪夢は、もう見たところで落ち込むこともないだろう。何故ならもう、愛する家族に囲まれている私には怖いものなどないのだから。

「愛していますよ、小春、雄人。」
「私も建人さんと雄人を愛してます。それと、生まれてくるこの子も。」
「ええ、そうですね。愛していますよ、私と小春の元に生まれてくるあなたも。」

今でも十分なほど毎日が幸せで、充実していると感じる。だが、来年はきっと、もっと幸せで、もっと充実した毎日を過ごせることだろう。愛する家族と共に。

「おやすみなさい、建人さん。」
「おやすみ、小春。いい夢を。」

小春の唇に、そして雄人の額にキスを落とし、まだ見ぬ我が子の眠るお腹をそっと撫でると、静かに目を閉じた。悪夢はもう、それ以降見ることはなかった。





——————
(2022/10/31)
ハッピーハロウィン!
そしてナナミン、大大大大大好きだよおおおお!!😭


indigo la End「インディゴラブストーリー」



 


back

 

top