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「………」

「蒼?」


何か言いたげなのに、そのまま何も言わずに口を噤んでしまった彼をのぞき込む。
ここは、部屋から少し離れた場所にあるせいだろう。
光といえば雲の隙間から見える微かな月の光くらいしかなくて暗い。

そのせいで、蒼の表情が一層辛そうに見えた。

最近の蒼はやっぱりどこか変だと思う。
悩み事があるなら、相談してくれればいいのに。
俺に言ってくれればいいのに、

そんなに、言いづらいことなのかな。

俯き加減だった顔をあげた彼は、俺と目が合うと、ふ、と笑みを零して。


「今まで、ごめん」


見てるこっちが苦しくなるような表情で、そんな謝罪の言葉を口にした。


「…――へ?」


その瞬間、サアと風が吹いて、髪を揺らす。
彼の重い呟きが意外で、予想外で、反射的に呆けた声が口から出た。

「今までごめん」って、どういう…。

まるでこれが最後だというようなそんな響きを持った言葉に、ふと、いつか聞いた椿さんの言葉を思い出す。



――――――――”その子といるのも、あと数日でしょうから”


もしかして、本当に…。

自分の頭の中に浮かんだ思考を否定するように首を横に振る。

蒼が庭の方を向いているせいだろうか。

とても声の位置が遠く感じる。

半分夢のような、耳の底で優しく囁かれているような声に、ただ何も言うことが出来ずに、自分でも意外なほど動揺しているのを感じた。


(…、いきなり、何を言って)


思考が追いつく前に、言葉が並べられていく。
身体から、温度が消えていく。


「………」


「まーくんは優しいから。まーくんは、絶対……俺を嫌わないから」



そして

『俺を、そういう意味で好きにならないから』

小さな声で呟かれるその言葉に、無意識に胸の辺りで拳を握る。
確かに、俺が蒼に何をされても嫌いにはなれないってことは、もう十分すぎるほど自覚していた。

なんでなんだろうっていくら考えても分からなかった。

それでも。

最後に呟かれた蒼の言葉に、違うと思わず声が漏れる。


「そんなこと、」


前までは本当に蒼のこと好きだなんて思ってなかったけど、今は――。

(……今は、)

そう言いかけると蒼が俯いて、ふ、と吐息を漏らした。
その瞳が、悲しげに揺れる。


「違うんだ」

「…なに、が?」


その言葉に、唇が震えた。

なにが、ちがう…?

自分の声を、迷いもなく、ためらいもなく。
違うと言い切る蒼に、身体が強張る。


(…蒼は、何を言いたいんだ)


自分の想いを否定されたようで、悲しい気持ちが胸中に広がる。
痛い。苦しい。
ぎゅっと胸の辺りの浴衣を握る。
そんな俺に対して、積もった雪に視線を向けていた蒼は瞳を伏せた。


「俺は、まーくんが俺を嫌わないことを分かってたから」


彼はそこで言いづらそうに、一度ためらって。
……その言葉を口にした。


「…利用、してたんだと思う」

「りよう…?」


そう問う自分の声が、自分のものではないように思えるほど。
脳が、その言葉を受け付けようとしない。


「………うん」


何かが優しく頬に触れる。
冷たい手の感触。

でも、生きてる人間の感触。

(…なんで、いつもとそんなに変わらないのに、その声が震えているように感じるんだろう…)

蒼は別に、泣いてなんか、ないのに。
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