10

誰かの声が聞こえる。


「…まふゆ…」


おかあさんだ。
声が、懐かしいお母さんの声が、はっきりと耳に届いた。


真っ暗だった視界が開ける。


「…ぁ…」


目の前にお母さんがいる。
蒼でも、市川という男でもない。


ちゃんと、お母さんの顔だ。

その懐かしさが嬉しくて必死に声を出そうとしても、壊れたように口から音は出なかった。

ずっとずっと、優しかったお母さんの顔。
でも、今はその顔は笑ってなくて。


「…おかあ、さん…っ」

「どうして…あなたはそんなに悪い子に育ってしまったの?…もっと…もっといい子だったら、ちゃんと愛してあげられたのに。わたしは、くるしまずにすんだのに」

「ごめ…っんなさい…っ」


ああ、また首を絞められてる。

あれ、でも、こんどはなにをしておかあさんをかなしませちゃったんだっけ…。

そうだ。おとうさんにおこられるおかあさんをみたくなくて、おとうさんに口答えしちゃったんだ。

そのせいで、きげんのわるくなったおとうさんに、おかあさんはもっとおこられた。


おれのくびを締めるお母さんの顔に、必死に手をのばす。
その顔はすごく怒ってるのに、でも何故か辛そうに目に涙をためておれを殺そうとする。



じぶんがつくってしまった、できそこないの子どもをしょぶんしようとする。


でも、お母さんは優しいからそんなことできなくて。
怖いから、そんなことできなくて。


いつも毎日、夜になるとこれの繰り返し。

おれを殺したくて、でもできなくて、こんなまねごとをしてくる。


「…おか…っ、おか…さ…ッ、ぅ…ッ」

「…っ、産まなきゃよかった…」


その言葉に、その表情にドクンと嫌な音が鳴った。

胸が、引き裂かれる。

まって。やだ。やめて。


そんなこと、いわないで。


「…ッ、おか…っ、」

「あんたなんか産まなきゃ…」

「…ぁ゛…っ」


その声と一緒に首を絞める力が一気に強くなった。
でも、それよりも心の方が痛い。


おかあさん、ごめんなさい。
いつも、いつもおれがいいてんすうをとれなくて、そのせいでおかあさんはおとうさんにおこられて。

ごめんなさい。ごめんなさい。
おれが、わるいこだからめいわくをかけてごめんなさい。

もっとおれがいいこだったら、おかあさんはおとうさんにおこられずにすんだのに。

もっとおれがいいこだったら、おかあさんはこんなにくるしまずにすんだのに。

もっとおれがいいこだったら、みんなしあわせになったのに。


だけど。


”ごめんなさい”


そんな何の意味もない形だけの言葉なんか、なんの償いにもならないのはわかっていた。
おれがいきてることに、かわりない。

…だれかを不幸にする存在がいることに、かわりはないんだ。



張り裂けそうな胸の痛み。
引き裂かれるような心臓の鼓動。

もう、たえられそうになかった。

毎晩続くこのお遊戯にではなく。
だいすきなお母さんのそんな泣きそうな顔を見ることに、もうおれの心は限界だった。


「おか…さ…」

「……わかってる。わかってるのよ…私が悪いって…全部私が悪いんだって…母親なのに、こんな風に真冬を苦しめて、あの人にも嫌われて…全部私が…」


俺の首に回した指に込めた力を抜いて、ぼろぼろと子どもみたいに自分を責めて泣くお母さんに、ふるふると首を横に振る。
いつもみたいに安心させたくて、へらりと笑った。


「ちがうよ。おかあさんは、なんにもわるくない。ぜんぶ、おれが出来そこないだから、悪いんだよ」


ぜんぶ、おれがわるいんだ。
そうすればお母さんもお父さんも、他のふつうのかぞくみたいになれてたはずなのに。

泣きたくなる気持ちを堪えて、唾を飲みこむ。
少し、ドキドキしているせいかもしれない。
鼓動が、速い。


「でも、でもね、おれ、いいこと思いついたから、だいじょうぶ」


興奮で若干言葉も速くなったような気がした。


「…だから、明日からもうくるしまなくていいんだよ。おかあさんは、これから幸せになるんだ」


にこりと笑って、ポケットから用意していた物を取り出した。

それが悪いことなわけがない。
むしろ喜ばしい事だった。

だって、お母さんを幸せにできるんだから。

なのに、お母さんはおれが手にもってるものをみて、真っ青になった。

おかしいな。
よろこんでくれるとおもったのに。

わなわなと震えるお母さんの唇が動く。


「…ま、ふゆ…?」

「いつもごめんなさい。おかあさん。わるいこは、いなくなるから」

「…え?」


ゴクンと唾を飲みこむ。
「だから、」と一度言いかけて、少し緊張して口を噤んだ。
少し深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。


「…だから、そのまえにいちどだけ、いい子だって…ほめて、ください」

「…っ、ぁ…その、はさみ……」

「うん。ずっともってた」


血の気の引いた顔で、お母さんは何か言おうとしてるけど、口から出てくる言葉は形になっていないものばかりでよくわからなかった。

視線を下に落とす。

おれが今手に持ってるのは、はさみ。
数日前、お母さんが遊んでくれてた時に使ってたものを返さずにポケットに入れていた。


おとな用のはさみだから、たぶんちゃんとできるはず。

うん、ともう一度頷いてお母さんにもう一度ぺこっとお辞儀をしてお願いした。


「おねがいします…。さいごのおねがいだから、さいしょでさいごのおねがいだから…」


さいごに、いい子だねっていわれたい。

ぎゅっと俯いてハサミを握りしめていれば、小さく唸るような声が聞こえた。

顔を上げるとくしゃりと顔を歪めたお母さんが、さっきよりもさらに大粒の涙を流して泣いていた。


「おかあ、さん…?どうしたの…?どこか、いたいの?」

「ちがうの…ちがうのよ……」


心配になって覗き込めば、お母さんにぎゅっと抱きしめられた。
おかあさんの匂いと、その柔らかい身体に、嬉しくて、安心して目を細める。

やっぱり、おかあさんはほめてくれたんだ。


「おれ、いいこ…?」

「…っ、いい子よ…まふゆは…いい子、悪い子なんかじゃない…」

「…へへ、」


頭を撫でてくれるお母さんに幸せな気分になって、これで良かったんだと思った。
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