10

ハサミを握る手に、顎から落ちた透明な液がぼたぼたと垂れてくる。
手を濡らしていた血と混じって、床に零れていった。


「俺…蒼と一緒にいると、嬉しくて、安心できて、心があったかくなって、幸せな気持ちになった」


俺は誰かに見てもらえてる。
自分を見てもらえて、存在を知ってもらえて、認めてもらえて、生きてるって実感できた。


「小学生の頃、あの時は蒼が、…くーくんが傍にいてくれたから、くーくんのことが大好きだった。高校でも蒼が傍にいてくれたから、ずっと一緒にいてくれるって約束してくれて、好きだって言ってくれて…大好きになった」


一緒にいたいって…好きだって言われた瞬間、胸が熱くなった。
苦しくなった。
痛くなった。

……でも、すごくすごく嬉しかった。

だから、俺も蒼の力になりたいと思った。


「蒼に…っ、いっぱい色々変なことされたって、監禁されたって…嫌だってやめてほしいって思ったけど、本気で逃げたいなんて思ったことなかった…っ。もう蒼の辛そうな顔を見たくなくて、苦しそうな顔じゃない本当の蒼の笑顔が見たくて、笑ってほしくて」


いつもいつも悲しそうな蒼の顔を見るたびに、胸が痛くなった。
でもどうすることもできなくて、だけど聞いたって答えてくれなくて。
俺なんかじゃ何の力にもなれないってわかって、だからせめて傍にいたいと思ったんだ。


…でも。

嗚咽で言葉にならない。
ひっくひっくと情けないくらいに喉が痙攣してしゃくりあげるせいで、うまく話せなくなる。


「蒼が笑ってくれれば俺も嬉しくて、抱きしめてくれれば幸せな気分になって、絶対に離れたくないって思った。蒼が好きだから、大好きだから、…傍にいてほしいって思った」


そう思った。
…蒼が好きだからこんな感情が生まれるんだと、…そう思っていた。

…だけど、違ったんだ。

はは、と自嘲気味な笑いを浮かべて、すぐに睨むように眉間に力を入れて吐き捨てた。


「でも…っ、この気持ちも全部嘘だったんだ…っ、間違ってたんだ…っ」


誤解してた。
嘘だった。

全部俺の感情は偽物だった。

全部全部全部、俺の勘違いだった。

ぎゅっと強く鋏を握って、狭い気管支で思いきり息を吸って叫んだ。


「…っ、俺は、蒼じゃなくても…ッ、一緒にいてくれる人ならだれでも良かったんだ…ッ!!」


今意思を持って叫んでいるのは俺なのに。
この言葉は間違っていないはずなのに。

それなのに。

なんでこんなに苦しいんだ。痛いんだ。心がちぎれそうになるんだ。

どうすればいいんだ。どうすればいいんだよ。
この気持ちを。

好きだと思った感情を、伝えた本人に否定されて。
それは違う感情で、好きって想いではないんだって言われて。

蒼に会いたい感情さえ間違ってるって言われて。
蒼のことを信じられなくなった瞬間に、過去の蒼がしてきたことを聞かされて。
お前は蒼が嫌いなんだ、捨てられたんだと耳元で何度も囁かれて。

それを何度も何度も言葉にするたびに、脳がその通りだと訴えてくる。

もし、皆の言うように俺が蒼に感じていた感情が”好き”じゃない別の感情なら。

…じゃあ、本当の”好き”ってどんな気持ちなんだ。

どうして、俺にはその感情がわからないんだろう。
何故間違ってしまったんだろう。

…やっぱり、…俺…どっかおかしいのかもしれない。

(…いつから…?)

生まれた時から?

お母さんを殺した時から…?

いつからかなんてはっきりとはわからないけど、きっと俺はどこかで何かを狂わせたんだ。


「…っ、ひ…っ、く…ぅ…っ」


思考が、気持ちが、心がぐちゃぐちゃになって、もうどうすればいいかわからなかった。

わけもなく溢れる涙が止まらない。
俺は別に悲しくなんかないはずなのに。
本当のことを言ってるだけなのに。


「…うん。知ってた」

「…ッ」


怒るわけでもなく、軽蔑するわけでもなく、彼は静かにぽつりと言葉を零した。
…でも、少しだけその声が哀愁を滲ませているように感じて唇を噛み締める。


(…悔しい)


俺がこんなに混乱しているのに。
俺がこんなに苦しんでいるのに。
俺がこんなにみっともなく、醜く感情を吐き出しているのに。

言い返すこともなく、何もかもわかっているような雰囲気で取り乱すことなく頷くだけの蒼に、
どうしようもないほど、狂ってしまいそうな程の寂寥感と憤怒の混ざったような感情が胸の中で膨れ上がってきた。

……やっぱり、本当に蒼は俺のことなんてどうでもよくなったんだ。


ストンと胸に何かが落ちる。

だから俺がこんな酷いことを言っても、気にならないんだ。傷つかないんだ。苦しまないんだ。
何とも思わないんだ。
俺のことなんか、もうどうでもよくなったから。必要じゃなくなったから。

……蒼には、今、他に大切にしてる人がいるから。


「っ、ぁ、」


そう思った瞬間、喪失感、孤独感、絶望感、そんな簡単な言葉では言い表せない程の感情に襲われた。

いやだいやだいやだ。
何がそんなに怖いのか、不安なのかわからない。理解できない。
でも込み上げる”それ”は、決して気持ちの良いものではなくて。

こんな感情、知らない。いらない。欲しくない。

いつも感じる気持ちの比ではないぐらい異様なほど強い感情。
一瞬で全身を隙間なく侵食される気持ちの悪い感覚。

気づけば、責めるような声を出していた。


「……なんでここにいるの…?」


頭の中で考えるより先に口から言葉が飛び出ていく。
小さく震える唇は言葉を紡いでいき、徐々に語尾が荒くなる。


「蒼さえいなければ、こんな気持ちにならなくて済んだのに」


…そうだ。
蒼がこんな場所にこなければ、俺はずっと幸せなままだった。
こんな感情を知らずに済んだ。
苦しまずに済んだんだ。

どうしたらいい。どうすればいい。この感情を消す方法がわからない。

こんな気分になるくらいなら、あのままずっと御主人様と二人きりでいた方が良かった。
蒼に会わないまま、ここで一人で人を殺した絶望を味わっていた方がまだ良かった。

自分で自分のことがわからないと自覚してしまった不安の気持ちに加えて、理由のわからない切迫感が感情を掻き立ててくる。


(怖い怖い怖い――…)


背中から何かが恐ろしいモノが追いかけてくるような恐怖に耐えられない。
そのせいで次々に喉の奥から出てくる言葉は途切れることを知らない。


「おれは会いたくなかった…っ、蒼になんか、会いたくなかった…!!」


嘘じゃない。この言葉は、嘘じゃ、ない。


だって、
蒼が来なければ、今の状況を見られずに済んだ。

蒼が来なければ、こんな姿を見られることもなかった。

蒼が来なければ、…こんなに感情を揺さぶられることなんてなかった。


「もう二度と顔なんか見たくなかったし、声だって聞きたくなかったのに…っ」


そう思おうとしたことはあった。
そう思えたらどれだけいいかと思ったことはあった。

でも、本気では思ってなかったはずの言葉が、言うはずのなかった言葉が、口からどんどん零れ落ちていく。


揺れる。心が揺れる。
怖い。
怖いんだ。
自分が怖い。

蒼と離れている間は、嫌いだと何の感情もなく言えた。何の抵抗もなく言葉に出来た。

…言葉にしたって、胸が痛くなることはなかった。

言うことで殴られずに済むし、言うことで自分をどうにか保つことができていた。

心の中を平穏にし続けることができた。

こんなに掻き乱されたりすることはなかった。
身体の痛み以外で泣きたくなることなんてなかった。なくなったんだ。
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