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…だから。

御主人様にも逆らえない。
蒼も殺せない。

じゃあ、俺は…どうすればいい…?

考えても考えても考えても考えても、…その言葉の答えは出なくて。


「家畜」

「…っ…はい…」


ずっと考え込んで行動を移さない俺に痺れを切らしたのか、低い声で呼びかけられる。
身体が恐怖で跳ねた。
返事をしてから、纏まらない思考で床に手をつく。
それだけでコンクリートが手についていた血でべっとりと濡れた。


「…(おれ…おれは…)」


ドクン、ドクン。
心臓が鳴る音がやけに大きく感じる。
膝をついていた状態から身体を起こして、顔を上げて頼りなげな視線を動かした。
まるで迷子の子どものような気分になる。


…わかってる。
わかってるんだ。
今、俺が何を求められているか。
何を望まれているのか。


ちゃんと、わかってる。


動くたびに激痛が走る身体に顔を歪めながら、気を抜けば折れてしまいそうになる心を奮い立たせる。
恐怖と不安の混じった感情のまま、ゆらゆらと視線を彷徨わせた。

彼が今そこにいなければいい。
もう彼が立ち去っていて、どこかに行ってくれていればいい。


「……っ、」


…でも、そんな期待とは裏腹に、彼は変わらずそこにいた。


(…なんで、)


さっきから何度も心の中に不意に湧き上がってくる疑問が喉の奥から出かかって、ぐ、と飲み込む。


視線を上げて、彼を見つめようとして、
でも、すぐに違和感に気づいた。


「……(…あれ…)」


…変だな…。
遠いからかな。
蒼の姿が、うまく見えない…。
ぼやけて、モザイクをかけられているように彼の顔が見えなかった。
何度瞬きをしても、それに比例するように何故かますます靄は濃くなっていく。


「…――ッ、ぁ…」


胸の深い場所から込みあがってくる感情のせいで、喉が引きつる。
…嗚呼、うまく言葉が出てこない…。

蒼…そう彼の名を口にしようとして、一瞬躊躇って唇を閉じた。
言い直す。
息を吸って、小さく震える唇で、…呼ぶ。


「くーくん」


懐かしい…ずっと昔に…何度も何度も声に出したあだ名。
瞼の裏に浮かんでくる光景に眼球が熱くなって、思わず瞳を伏せた。

俺が呟いたその瞬間。
息を呑んだような気配がそのまま空気を通して伝わってくる。

泣きそうになるのを必死に唇を噛んで堪えながら、手にもった鋏を”彼”の方に向けた。


喉が痛い。
眼球が痛い。
頭が痛い。
耳が痛い。
神経が痛い。

その全部の刺激に抗うように、ぎゅっと瞼を強く閉じた。


痛い。痛い。痛い。
苦しい。苦しい。苦しい。

身体には数えきれないほどの傷がある。
でも、ジクジクと膿が出ているような痛みはそこからじゃない。


「…ッ、(しんぞうが…裂ける…)」


手を伸ばそうとするな。
縋ろうとするな。


顔を少しでも見てしまったらそうしてしまうような気がして、俯きながらただ鋏を構えて震える手を睨み付ける。

久しぶり、なんて笑って手を振って言い合えるような…穏やかな再会なんかじゃない。
会いたかった、なんて飛びついて彼を抱きしめられるような…幸せな再会なんかじゃない。


「…っ゛、」


喉の奥が痺れる。
言葉にしようとしても、喉が小さく震えて掠れた声しか出ない。

ギリ、と噛み切る勢いで強く噛む。
薄い血が舌に流れ込んできた。

静かに募っていく苦々しい感情に眉を寄せていれば


「…まーくん」


相変わらず、さっきと変わらずに俺の名を呼ぶ彼に、プチッと頭の中で何かが切れた音がした。
怒り。不安。戸惑い。恐怖。

さっきと同じように、まだそこにある…彼の姿。
視界をぼやけさせているもののせいで、ほとんど見えていないけど…ぼんやりと彼がそこにいて、俺を見つめていることだけはわかった。
抱えきれない感情が爆発する。


「…っ、なんで…ッ、」


なんでなんでなんでなんで。

ぐっと込み上げてくる感情のせいで、声を詰まらせた。
喉が腫れあがって、うまく呼吸が出来ない。言葉も紡げなくなって、無理に口を開こうとすると今度は胸の辺りに圧迫感を覚える。

それでもと、息を深く吸って震える喉で怒りをぶつけるように叫んだ。


「―――なんで逃げないんだよ…っ!!」


いなくなってくれればよかった。

本当は…蒼は、俺と御主人様がセックスしている間にすぐにいなくなってくれると思っていた。
それか、…俺が御主人様と話している間に立ち去ってくれればよかったのに。
そのくらいの時間は充分にあったと思う。


どうして蒼がここにいるのか、なんてそんなことは最早どうでも良くなった。
そんな理由なんか知らなくて良い。
少なくとも、ここからすぐに走っていなくなってくれさえすれば、俺はこんなことしなくてすむんだ。



「…俺が、蒼を殺せないと思ってる…?」


はは、と笑って口角をあげてみる。
ずっと逃げるそぶりすら見せない彼を嘲笑うように。

自分でも自覚する。
頬の筋肉が強張ってピクピク痙攣していて、多分とても歪な笑顔だった。
でも、笑わないではいられない。


(……あの時…、俺が守るって約束した蒼が…くーくんが今目の前にいて、俺は彼を殺そうとしてる)


そして、俺は蒼が離れてしまった後。

蒼に会うために、もう一度やりなおすために会いに行ったはずなのに。
今違う場所でこうして出会って、やり直しなんかできない状態になってる。

これが滑稽でなくて他になんと言えるだろう。


「…あはは…っ」


自分でも驚くほど震えて弱々しい笑い声。


彼は全部聞こえていたはずだ。
全部見ていたはずだ。


御主人様の声は、俺だけじゃなく、蒼にも聞こえるくらいの大きさだった。
そのやりとりだけじゃない。
御主人様の言う話では、カメラからずっと見ていたんだろう。


俺がしていたこと、言われたことを聞いていたはずなのに、どうして彼はまだそこにいるんだ。


過去がそうだったからっていって、今俺が蒼に反抗することなんか出来るわけないと思ってるのか。
それとも、こうやって混乱する姿を見て笑ってるのか。

戸惑いよりもむしろ、怒りを覚える。
ぎゅっと強く鋏を握った。
さっき男を刺した時に鋏の先についた血は、既に固まってこびりついている。
手についた血も、皮膚にその形となって張り付いていた。


「俺…ぜんぶ思い出したよ」


ぽつりと小さくつぶやいた。
脳裏にフラッシュバックする、お母さんの最期の顔。

一瞬だけ言いよどんだ言葉は、口を開けば堰をきったようにあふれ出す。


「俺が…っ、俺が殺したんだ…!!お母さんを殺した…!!」

「……うん」

「…っ、この男だって、俺が殺した…!全部…!!全部…!俺がやったんだ…っ、だったら蒼を殺すくらい簡単にできるんだよ…!そんなの蒼だってわかってるだろ…ッ」

「…うん」

「…っ、」


狭い部屋に俺の声が反響して木霊する。
それに対して、短く返される肯定。

涙交じりの荒い俺の声とは逆に、彼の声は何の動揺も不安も帯びていない。
ただ、少し声に寂しそうな、悲しそうな色が滲んでいるような気がした。


よく覚えている。
泣きながら訴えて叫ぶ俺に対して、いつも蒼は全く取り乱すことなくて。
何度も何度もうん、うんと頷きながら、泣き止まない俺を持て余すように、どうしたらいいかわからないという表情で困ったように微笑んでいた。


(…なんで、まだそんな…っ)


記憶のままの声に、こっちばかりが動揺させられる。
もっと冷たい声で返してくれれば、罵ってくれれば、少しの後悔だけで終わらせることができたかもしれないのに。

そんな思考を振り払うようにぶんぶんと勢いよく首を横に振る。
目から零れた涙が絶えることなく口の中に零れ落ちてきた。


「…蒼の言った通りだよ。おれは、傍にいてくれる人ならだれでもよかったんだ。」


そうだ。誰でもよかった。

蒼の言った通り、俺は多分蒼じゃなくても好きになった。
俺を見て、構ってくれる人ならだれでもよかったんだ。

ただ、たまたまそこにいたのが蒼だっただけ。

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