12

「……(嗚呼、)」


喉の奥が震える。

たくさん、あんなにたくさん、今さっき拒絶するような言葉を、醜い言葉を、彼にぶつけたばかりだというのに、
嫌いだと、もう顔も見たくなかったと、言い放ったばかりなのに、


どうして俺は、


ぶるぶると小さく震えて、鉛のように重かったはずの腕を、持ち上げる。
今まで感じていた激痛がまるで夢だったのかと錯覚してしまうほど痛くない。
全神経が、彼に、蒼に向いていた。


「…あおい…」


彼に応えるように、小さく彼の名を呟く。


(っ、)


呼んだ瞬間、何かが胸の中で音を立ててはじけて広がったような気がした。
滝のように溢れてくる感情を、抑えることなんてできるはずもなくて。


「ぁ、゛あああ…っ、あおい…っ、あおい…ッ、あおい…――ッ」


気づけば今までにないほどボロボロと涙を流しながら、何度も何度も彼を呼んでいた。
最初小さかった声は、その名を呼ぶにつれて感極まったように震えた喉によって大きくなる。
悲痛な濁声。
散々泣いて泣いて泣きすぎたいせでい赤く腫れた頬に、伝っていく。
彼の服に染みていく。


「…っ、おれ、…ッ、おれも、あいたか――」


自分でも無意識だった。
口から零れる言葉は思考するよりも早く、
とにかく彼に触れたくて、現実だと実感したくて。
俺を抱きしめる彼に、宙に浮かせた手で触れようとした。


…瞬間。


ガン…ッ


部屋に響き渡る音。
何かがぶつかったような大きな音に、反射的に肩が跳ねる。


「…っ、ぁ」


自然と吸い寄せられるように音の方向に目を向けて、小さく声を上げた。
血の気が引いていく身体。
背筋に寒気が走ったような感覚に襲われた。


「…ごしゅじ、さ…」


御主人様は何も言わなかった。
ただ、壁を靴で蹴り上げて、鋭い眼光でこっちを射貫くように睨みあげていた。
暗がりで見えづらいその場所にいる彼の瞳だけは、何かを訴える様に強い光を放っていた。
苛立ちを含むその視線を受けて今の状況を思い出して、熱くなった体温が一気に引いていく。

見た瞬間に、目は、脳は、彼が何を要求しているのかを理解してしまった。

自分の右手に握られた鋏。
そこにこびりついた血液。


視界に入ってきたその光景に、高ぶっていた感情が、潮が引くように冷める。
抱きしめようと持ち上げた手をおろして、ぎゅっと握った。


「…なんで…そんなこというの…?」


涙がぐっと込み上げ、声を詰まらせる。
ぐっと目に力を入れる。
涙をためて、顔を上げた。


俺だって、会いたかった。
ずっと会いたかった。
声を聞きたかった。
触れたかった。


でも、最初に俺から離れていったのは、
俺に愛想を尽かしたのは、

……蒼の方じゃないか。


「…まー、くん…?」


戸惑うように息を呑む気配に、もう惑わされないとぶんぶん首を横に振る。

…蒼は、嘘つきだ。


「…ッ、おれから、離れていったくせに…っ」

「…っ、」

「おれなんか、もう必要ないから離れたくせに…、…”会いたかった”…?」


嘘つき。嘘つき。嘘つき。

……蒼の、嘘つき。


「何…言って、俺は――」

「もう嘘は聞きたくない…ッ!!」

「っ、」


怒りの感情のまま叫んで、ドンッと手で強く胸を押して突き放す。
零れる涙を見られたくなくて、顔を見られないように俯いた。
吐き捨てるように嘘つき、と小さく呟く。


「蒼の言う言葉なんて、嘘ばっかりだ」

「…嘘…?」

「嘘ついてた。蒼は俺に、嘘をついていた」

「…俺が、何を、」

「色んな人を監禁して、酷い目に合わせてた。紫苑、板本君、それと…他にもたくさん、数えきれないくらい」

「…っ」


息を呑む気配に、ああやっぱり本当だった、と絶望に似た感情が胸を締め付けてくる。
否定してほしかったのか、自分でも何を求めて言ったのかはわからないけど…それでも暗い気持ちになるのは止められなかった。
あの時、どうして俺はもっと蒼にそのことについて聞いておかなかったんだろう。
なんで、なかったことにしてしまったんだろう。
…今更後悔しても遅い。


「…なんで蒼は前に聞いた時、何も知らないって言ったの?なんで俺には何も教えてくれなかったの?」


どうして。どうして。どうして。
いつもそんな疑問ばっかりで、俺は蒼のことを何も理解できない。
…いつもいつも、知るのは後になってからだった。

”知らない方が良い”って、なんで言ってくれないのかって聞いたら、”知らない方が幸せなこともあるから”って彼はいつもそう言った。


「…俺が昔、蒼に無理矢理約束させたせい…?」

「違…っ、」

「だから蒼は…皆を監禁して、他の人にレイプまでさせて、俺を守ろうとしてくれたの?」


イヤホンから聞こえてきた声は皆泣いてて、助けてって言ってて、苦しんでた。

まだ半信半疑だった。
それでも、確かに今思い出せば俺の周りの人は何故か遠ざかっていっていて。
…違うといってほしかった。

俺のせいで皆が、俺と仲良くしようとしてくれた人が、皆不幸になっていってたなんて思いたくなくて。

でも、


「……俺、は…」



彼は否定しなかった。
ただ、戸惑っているような言葉を濁して、瞳を伏せた。

…それは、肯定の印のように思えて。

ズキリと胸が音を立てて軋む。

これで本当に俺のせいじゃないなんて思えなくなった。
思えるはずもなくなった。


「…そんなことしてもらっても、嬉しくない…っ。俺は、誰かを酷い目に合わせてまで、悲しませてまで、守ってほしくなんてなかった」


…ああ、違うのに。

責められるべきなのは、本当は俺の方なんだ。
だって、元はといえば俺が蒼に頼んだことなんだから。
俺が、蒼にそうしてくれって願ったことなんだから。

蒼は何も悪くない。
蒼は悪くない。

あの時、俺がちゃんと蒼のしていることに気づいていれば。
あの時、俺がちゃんと蒼のことを見ていれば。

…あの時、俺が蒼にあんなお願いをしなければ。

全部、全部悪いのは俺なのに。

…なのに、俺は自分のことを棚に上げて、蒼を責めるようなことばかり言ってしまう。


「…っ、ぅ…」


だめだとわかっていても、だめなことをしているとわかっていても、言葉がとまらない。

本当はこんなことしてる場合じゃなくて。
俺が蒼にしなければいけないことは、こんなことじゃなくて。
…もう、どうしたらいいかわからない。



「…ぁ゛…あう…違う…ごめん…ごめんなさい…違う…違う…そうじゃなくて、」

口から零れる懺悔の言葉。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
蒼にばかり全部押し付けて。
責められる立場なのは、罰を受けるべきは俺の方なのに。


「ごめんなさい…っ、ごめんなさい…ッおれが、おれが全部悪いんだ…っ」


溢れる涙を堪え切れずに、両手で目を覆った。
熱い涙が手を濡らしていく。
泣き崩れて、嗚咽を漏らして、でもそんな自分にまた自己嫌悪した。
泣いたって何も変わらないのに。
謝ったってもう取り返しはつかないのに。
俺の罪は消えないのに。

…許してほしいなんていわない。
そんなこと言えない。

…――だから。


「まーくんは何も悪くない…俺が…っ」

「俺が悪いんだ…っ、ごめん…っ、ごめんなさい…っごめんなさい…」


俺は、慰めてほしいわけじゃない。
がばってもらいたいわけじゃない。
泣いた俺が悪いのに、蒼は優しいからきっと俺を庇うって知ってたのに、こうやって泣く俺は…狡くて、卑怯者なんだろう。

甘えるのもいい加減にしろと自分を叱りつけながら、拳で涙を拭う。


「蒼」


声を強くして、彼の腕を掴む。

ずっと気になってたことがあった。
気になって、気になって、気になって。
あの頃はどうしても聞くことが出来なくて。

…震える唇で言葉を零した。


「……蒼…蒼が、あの時、俺にばいばいって言った時…俺のこと好きって言ったのは、本当だった…?」

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