13

「…え?」


一瞬遅れて呆気に取られたような声。
俯いて、唇を軽く噛み締める。
腕を握っていた手から少し力を抜いて、遠慮がちに腕ではなく彼の服を掴む。
その手にきゅっと力を入れた。

不意にぼんやりと思い出す。
高校の時にも蒼に同じことを聞いた。

…あの時は、好きだって言ってくれる蒼の言葉を信じられた。
だって、信じられなくなるほどの出来事もなかったから。

…だから、あの時と今では全く違う。
自嘲気味な気分を押し出すように、ふ、と息を吐いた。


「嘘、だったんだよな…?」


わかりきっていることを、何故聞いているのだろうと自分でも不思議に思う。
わかってるくせに、もう自分の中では理解しているくせに、心のどこかで昔のように否定してほしいって…思ってしまっている。


「…蒼は優しいから、俺との約束を守るために、ずっと耐えてきたんだろ…?せっかく蒼は幸せな場所を見つけたのに、俺に言いだせなくて、ずっとずっと苦しんでたんだ…」

「…っ、なんで、そんなこと…」


(なんで…って、)


少しだけその反応が意外で、キョトンと目を瞬く。
蒼は、やっぱり気づいてなかったんだ。
一瞬震える唇のせいで声までも震えそうな気がして、一度口を閉じてから少しだけゆっくり呼吸をする。
瞳を伏せて静かに言葉を零した。


「…俺、見てたんだ。…蒼が、キスしてるところ」


瞼を閉じれば、ぼんやりとその時のことが映し出される。
あれから色々なことがあったのに、まだちゃんと覚えてるもんなんだな…。
本当はこんな状況で、こんな再会の仕方で聞く予定じゃなかったはずだった。

…だからかもしれない。
予想していたよりも…ずっと、胸が痛い。
意識して呼吸をしていなければ、砕け散ってしまいそうなほどに心臓がきゅーって縮んでいる感覚が今にも死んでしまいそうになるほど苦しくて…辛い。


「……俺が見た時、蒼は…知らない女の人とキスして、抱き合ってた」

「…っ、」

「……だから、…おれは…」

「キスって、…そんなの、いつ…」


驚いたようにコクンと息を呑む気配。
躊躇いがちな俺の言葉を遮るように呟く声に、鈍い頭で記憶を探る。
久しぶりにちゃんと脳を使って思い出そうとしたせいで、ズキズキと痛む頭は結構長い時間をかけて思い出した。

…確か、


「…おれと蒼が、…縁側で昔のこととか話した数日後…熱出してたとき」

「…っ、」


あの時だけじゃない。
俺が違和感を感じたのはあの時だけじゃなくて、その後から何度もあった。
セックスする時。風呂に入る時。部屋にいる時。
蒼の様子がおかしいことはたくさんあった。

もしかしたらその前から蒼にはそういう関係の人がいたのかもしれないけど、…俺はそもそも一つの部屋にしかいなかったから…視界に入ってこなかっただけだったってことも充分ありえる。
俺が一人でいる間、蒼にはいくらでも時間はあったはずだ。


「会ってたんだよな?俺と一緒にいるときも、俺に内緒で会ってたんだ。蒼は好きな人が出来て、その人と一緒にいたくて…、でも俺には言えなくて、隠れて会ってて、だから、だから俺のことが邪魔になったから、だから…」


俺から、はなれていった。
聞いてばっかりのくせに顔をみるのが怖くて、俯いたまま問いながら、ぎゅっと服を握る手に無意識のうちに力が入って小さく震える。


「違う…ッ、違うんだ…っ、…俺は…」

「…っ、」


焦りを滲ませた声が聞こえた瞬間、手を強く掴まれた。
ビクッと反射的に全身が震える。
何を言われるのかと身構えて、怖くて、苦しくて、叫びたくなる。

顔を上げて彼の顔を一瞬見て、でもその唇が開くのを見た瞬間怖くなってまた俯いた。


「…離して…っ」

「まーくん」

「…っ」


彼の声で昔と同じように呼ばれて、ドキッと心臓が跳ねた。
ドキドキとなる心臓の鼓動が煩い。
真剣なその声音によって余計に恐怖を掻き立てられて、もう一度手を離そうと力を入れた。

瞬間。


「…俺は、まーくん以外に好きな人間なんかいない」


聞こえてきたその言葉に硬直した。
掴まれた手を振りほどこうとして、ぴたりと動きが止まる。

鋭い戦きが足の先まで伝わってくるのが自分で分かった。
何か言おうとして、舌が上顎にくっついたように声がでない。

俯いた頭の上の辺りで、声が言う。


「俺の好きな人はずっと、まーく」

「っ、やだッ!!」


掴まれてない方の手で、耳を塞ぐ。

また、蒼は俺に嘘をつくのか。
また、俺は蒼に嘘をつかせてしまうのか。
そんなの、もう嫌だ。嫌だ嫌だ。


「もう嘘はいらない…!嘘なんかいらない…!」


いらないいらないいらない聞きたくない。
嘘の”好き”なんていらない。


「だって、だって…蒼は…俺から離れた後だって、他の人とセックスしてた…っ!おれ、みたんだからな…ッ」

「…ッ、」

「毎日毎日毎日蒼が他の人とヤってる時の声も、音も、えいぞうも、ぜんぶ、ぜんぶきいた…っ」


他の人のそんな場面を見るのなんて生まれて初めてで。
それが、よりにもよって蒼で、友達で、他の人とヤってる場面ばっかりで、
焼き付いてる。網膜の裏に、記憶に、耳に、嫌ってほど焼き付いてる。

胸が抉られて、潰されて、壊されて、何度も何度も心をぐちゃぐちゃにされた。


好きだって言ったくせに。
好きだって言ったくせに。
好きだって言ったくせに。


俺を好きだって言ったくせに、……蒼は俺を突き放したくせに、他の人とキスして…ヤって……交わってた。全部全部見たんだ。聞いたんだ。

ギリギリと胸が締まる。
汚染されるように身体に嫌な感情が広がっていく。


「…どうして…、見たって…」

「俺が見せてやったんだ。お前の隠してること、今までシてきたこと全部な」

「…ッ!」


…そういえば。
いつだったっけ…ずっと玩具を挿れられてベッドに固定されてた時、…何時間も蒼が戻ってこなくなったことがあった。

あの時も、もしかしたらその人と一緒にいたのかもしれない。

他の人と、…抱き合ってキスしてたのかもしれない。
笑って、俺に言ったときみたいに好きって言ってたのかもしれない。

お風呂に一緒に入らなかったのも、俺がキスマークがあるのかって聞いた時、蒼はそんなんじゃないって言ってたけど…本当は、”そう”だった…?


「…っ、ぅ…」


ギュウウ…


(…どうして、痛いんだろう)


怪我してるわけでもないのに、ずっと…痛い。この感覚が気持ち悪い。

助けて。助けて。誰か、叶うならこの痛みを消してください。

生きたままずっとこの苦しみを感じるくらいなら、いっそ本当に心臓を握り潰された方が良い。
きゅううと相変わらず収縮し続けているような激痛を絶えず生じさせてくる胸の辺りに、無意識に眉を顰める。


(…言ってくれればよかったのに。俺がいらなくなったなら、鬱陶しくなったなら、いっそ、俺なんかもういらないって言ってくれたほうが良かった…っ)


見たくなかった。
全部、全部、見たくなかった。
蒼が他の人とキスしてるのも。
蒼が、他の人とセックスしてる写真も、映像も、音も。
全部、見たくなかった。

そんなの見ることになるくらいなら、もっと早くに捨てられた方がマシだった。


(もうやだ…ッ、痛いのはやだ…っ、苦しいのは嫌だ…ッ)


耐えられない。耐えられない。耐えたくない。
叫びたくなる感情を堪えて、ぶんぶん首を振った。


ああもう、また、またやってしまった。
自分から聞いたくせに、聞くのが怖くて知るのが怖くて、自分で全部拒絶する。

違う。本当はこんなことを伝えたいわけじゃなかった。
子どもみたいに自分の気持ちばかりを押しつけて、また迷惑をかけちゃいけないのに。

今はっきりと、好きじゃなかったって、嘘だったって言ってくれれば、全部終わらせることが出来たのに。


…”蒼に好きな人がいるのかもしれない”じゃない。
いるんだと思うべきなんだ。

”俺を好きじゃなかったのかもしれない”んじゃない。
好きじゃなかったと思うべきなんだ。

もっと早く言うべきだった。気づくべきだった。壊すべきだった。
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