14

蒼を、これ以上縛らないようにするためには。

俺が蒼の幸せを心から願っていると伝えるためには、…蒼から離れてあげると言葉で伝えるためには、充分すぎる事実なんだから。

…だから。


(本当は、本当は…っ俺が、本当に言わないといけない言葉は…、こんなのじゃなくて、本当は、)


頭の中の俺は、自然な笑顔を浮かべて笑っている。


『蒼…好きな人、出来たんだ。…良かった。だから、今までのこと…全部ごめん。ごめんなさい。だから、もうこれ以上蒼に苦しんでほしくない。苦しませたくないから…』

『…だから、だからもう隠さなくていい。嘘つかなくていい。辛くならなくていいんだよ。俺はもう、…だいじょうぶだから。蒼も、…どうか幸せになってください』


ずっとこの言葉だけを、言いたくて。

そう言わなければいけなくて、だから言おうとして、蒼が好きだと言ってくれていた昔のような笑顔を浮かべて、最期くらい笑っていたくて、笑みを頑張ってつくってみる。


…そう、なるはずだった。
でも、結局現実はそうはならなくて、

自然な笑顔を浮かべるどころか、汚れきって、何度も殴られまくった皮膚が作る今にも泣きそうな顔はぎこちなくて、痛くて、空しいだけだ。
割れて血の滲んだ口角がひりひりと痛む。

…この時点でもう本当は…自分が蒼を殺せるはずがなかったんだって気づいてた。

最初は無意識だったはずなのに、今は自分が何のためにこんな会話を蒼にもちかけているのか理解していた。

…嫌いじゃないからこそ、俺は蒼に償わなければいけない。

笑って、もういいんだよ。おれに気を遣わなくていいんだよって言おうとして口を開いた。
全部謝って、すべてを終わらせるはずだった。


「…なんで…ッ、」


…なのに、出てきた言葉は…全く正反対のもので。

頭の中とは裏腹に、悲鳴のような声が喉の奥から上がってきた。
何を言ってるんだ、言おうとしてるんだと、冷静な部分が制止しようとする。
…でも、さっきからずっと動揺しっぱなしの一部分に口を無理矢理こじ開けられた。


「…ッぁ――」


引きつった喉が叫び声を上げる。

…蒼には好きな人がいて。
他の人とキスした唇で、俺にキスして…好きって言って。
他の人を抱き締めた腕で、俺のことも抱きしめて。


(…おれ、何にこだわってるんだろう…)


そんなこと、どうでも良いはずなのに。
そんなこと、俺には関係ないはずなのに。

…俺が考えてることはこんな醜いことじゃないはずなのに。

むしろ生きてるうちに、そうしてくれる相手がいただけで幸せなことなんだ。
俺にそうしてくれただけ、一緒にいてくれただけで、その時間を与えてくれただけで、すごくすごく幸福なことなんだ。

こんな…人殺しの、愛される価値のなかった俺を見てくれただけで、もうこれ以上ないほど嬉しいことなんだから。

だから、蒼がどこで何をしてたって、俺が気にする理由なんてないはずで。
それどころか、蒼に誰か大切な人が出来たことを喜ぶべきで。

それなのに、どうしてその相手が…、

なんで、


「…なんで、おれじゃなくて、他の人なんだ…っ」


おれじゃダメだったのか。
なんで、その相手が…おれじゃないんだろう。

…――なんで蒼は、おれを好きになってくれないんだろう。


(…っ、)


そう思った瞬間、ハッと息を呑んだ。

…俺、今、何を、言って…

ふるふると首を横に振って、俯く。
違う、違う、と何度も小さく零した。


「あ、の…っ、ちが…ッ、おれは…」


どうしてこんなわけのわからないことばっかり言ってしまうんだ。
どうして、俺はこんなに誰かを責めることしかできない。求めることしかできない。縛ることしかできない。非難することしかできない。否定することしかできない。

全部、全部、全部俺が、俺のせいで、俺がいるから、


「違う違う違う違う…ッ、ごめんなさい…っ、ごめんなさいっ」


また、間違える。
何度も何度も間違えて、誰かを傷つけて、苦しませて。


「ただ、聞きたかっただけで、おれは…おれは責めてばっかりで、答えなんてわかってるのにこんなことばっかり言ってごめん、なさ…っ。もう、もう迷惑かけたくない…っ、かけたくないのに…っごめんなさい…っぁ゛あああ…ッ、嘘つきなんていってごめんなさいごめんなさ…っごめんなさいごめんなさい…っ」


子どもより酷い嗚咽で泣きじゃくった。

自分が選ばれるはずないのに、そんな世界を望んで。
人を傷つけた分だけ自分が幸せになれるはずなんてないのに、幸せな未来を望んで。

ばかみたいだ。


「蒼に…っ、蒼に酷い事ばっかりして…っ、それで…っ、それで…、ごしゅじんさまのそばにいて…っ、だから…っなのに…っ」


唇を噛み締めて、御主人様がいるだろう方向に顔を向ける。
床に両手をつけて、額を地面にぶつける。
強く額を擦りつけたせいで、痛くて苦痛に顔を少しゆがめた。


(おれは、おれは…っ)


「…きない…っ、おれはやっぱり…っ、蒼を…っころすこと、なんてできません…っ、ごめんなさい…っ、できない…っ、あおいをころすなんて…っ」


できない。できない。できない。

目から零れ落ちた涙が、床に灰色のシミを作っていく。
息をはいたせいで床に落ちていた埃が、砂が、口の中に入り込んできてむせる。
でも、それにも構わず言葉をつづけた。


「…だれかに、そばにいてほしくて…っ、そばにいてほしいのに…っ、おれは…っ、その人の望みをかなえることすら…っできなくて…っ、ぁ゛あ…ごめんなさい…っ、ごめんなさい…ッ、」


ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

覚えたての言葉のように繰り返す。
途中からは誰に謝っているのか、誰に赦されたいのか、もうわからなかった。

俺がもっといい子だったら、もっと出来た人間なら、まともな人間だったら。
そもそも生まれてきたのが俺じゃなかったら、今も皆幸せで、皆が”俺”の周りで楽しそうに笑ってて。
そんな幸せな世界にできたんだろう。

皆いい人なんだ。
皆優しい人なんだ。
皆俺を見てくれた。
皆俺と一緒にいてくれた。

すごく、すごく、いい人なんだ。
皆のことが好きで、大好きで、大切で。

だから、幸せになってほしかった。

お母さんに、お父さんに、蒼に、御主人様に、俊介に、板本君に、紫苑に、

それだけじゃない。

蒼の好きな人に、そこで血まみれになって倒れてる市川っていう男に、自分のせいで今まで苦しんだかもしれないすべての人に、

おれさえ生まれてこなければ、ただ普通に、幸せに過ごしていたかもしれない人達に、おれはどうしたら償うことができるんだろう。


「…へぇ…?じゃあ、お前は俺に捨てられていいんだな?」

「…っ、」


その冷たい声音に、”捨てる”という言葉に、ビクッと身体が震える。
捨てられたくない。もう、誰にも捨てられたくない。

…でも。

キツく結んだ唇の隙間から、嗚咽が漏れる。


「…いい…っ、です…っ、あおいをころすくらいなら…っおれが…ッ、おれが…っ」


俺が死んだ方が良い。


「ふ、ぇ…っ、ぁ゛ぅうう…っ、」


蹲って顔を覆って涙を流す。

そうだ。

お前が死ねばよかったんだ。
おれが、おれが、
おれなんて、もっと早くに死んでおけばよかった。
誰かの迷惑になるくらいなら、誰かを不幸にするくらいなら、あの時、なんでお母さんに首を絞められた時に、死ねなかったんだろう。その方が良かった。どうしてあの時、刺してしまったんだろう。

どうして、どうして、どうして、俺はまだ死んでない。

いつもいつもそう思って生きてきたのに、今まで死ぬのが怖くてこうして生きてきてしまった。
なんて臆病者。弱虫。
俺なんていますぐにでも、死ぬべきなんだ。

お前なんか死んじゃえ。
死んじゃえ。

心が叫ぶ。

心臓を突き破るような悲哀の感情に、今の自分よりもずっと幼いおれの声に、俺は右手に持っていた鋏を自分の方に向けた。
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