16

「…おれ、そんなに感謝されるようなこと…」


…してない。
そう言おうとすれば、彼は否定するように静かに頭を振った。


「…本当は、随分前に死んでるはずだったんだ」

「……」

「…でも、そんな俺を、まーくんだけが助けてくれた。救ってくれた。死の淵から引き揚げてくれたんだ…」


優しく細められた彼の瞳が微かに揺れて、潤む。
頬に触れた手が少しだけ動いた。
思わず目をぎゅっとつぶる。
不意に閉じた瞼の向こう側が少し暗くなって、軽く額に何かが触れた。


近くで呼吸をする気配に驚いて目を開くと、至近距離で瞳を閉じた綺麗な彼の顔がある。
一瞬だけ額同士をくっつけて、離れた彼は悪戯っぽく、儚げに微笑む。


「ずっと俺は死んでた。生きてるけど、死んでたんだ。嬉しいってことも悲しいってことも…全部まーくんが教えてくれた…」

「………」

「だから…まーくんに出会ったあの日から、…俺の全部は…命は、まーくんのものだよ」


至極幸せそうに、でも少し悲しそうに影を落とした瞳で彼はそう囁く。


「まーくんが死んでほしいって思うなら、言うなら喜んで死ぬ。俺は、まーくん以上に大切な人なんかいないし、好きにもならない。」


その声で、言葉で、…再び脳裏に蘇ってくる過去の記憶。光景。映像。


(どうして、そこまで…、)


記憶を思い出した今でも、何故彼がそんなふうに言うのかわからなかった。

全てを思い出せば、俺のことだけじゃなくて蒼のことも、全部わかるようになると思ってた。

…けど、


「…(…思い出した、はず、なのに)…」


全部彼に関する記憶は、ほとんど思い出したはずなのに。

……どうしてだろう。


わからない。
蒼の気持ちだけじゃない。
あの時の自分の感情とか、気持ちさえ…何故かさっき思い出したと思ったのに…今はもう薄くてわからなかった。

まるで、自分には関係のない赤の他人の記憶を盗み見ているように。
まるで、自分があの頃、何の感情もなかった人形だったかのように。

…ずっと思い出したかったはずなのに、どこかその記憶が偽りであるかのように遠くぼやけている。

困惑する。
不安になる。

(まだ、何か忘れてる…?)

いや、そんなはずない…と思考を振り払う。
目の前にいる彼の表情を見て、ズキリと胸が痛んだ。


…おれは、本当にそんな風に思われるようなことしてない。

自分の…蒼の命が俺のものだなんて、そんなの絶対に変だ。

だから、

彼の言葉を否定するように、一生懸命首をふるふる振って蒼の服の裾を掴む。
裾を掴んだ指にきゅっと力を入れた。



「…っ、なんで、いつもそんなふうに…っ」


……嬉しかった。
多分ダメなことなのに。

”俺の全部は…命は、まーくんのものだよ”

喜んじゃいけないのに。
蒼のことを考えたら、喜ぶなんて間違ってるのに。

そう言ってもらえたことが、俺に向けられたその言葉を、一瞬でも嬉しいと感じてしまう自分なんか、やっぱり大嫌いだと思った。



「…っ、蒼は、なんでそんな、いつも、自分をたいせつにしないで……っ、かなしいこと、ばっか…っ」


「違うよ。…まーくんの為に死ねるなら、それでまーくんが幸せになれるなら…それは俺にとってこれ以上ないくらい、幸せなことだから。」


彼の言葉に、胸が熱くなる。
涙がぐっとこみ上げ声を詰まらせた。


「まーくんと会えてよかった」

「……っ、ぅ……あお、い…?」

「生まれてきてくれて、…俺と出会ってくれて、ありがとう…」

「…っ、ぁ…ぅぁ…っ」


ふわりと微笑む彼の泣きそうな笑顔。

感謝の意の滲んだ震える声に、くしゃりと顔が歪むのを感じる。

…どう返したらいいかわからない。

そんな風に言われたことなんかなくて。
親にだって、そんな風に言われたことなくて。
夢みたいな幸福を示す言葉に、どう返せばいいかわからない。


「…お…っ、れ…っ、ぅ…っひ…っ、」


熱く頬を流れる涙のせいで震える唇がうまく言葉を形に出来ない。
それでも何かせずにはいられなくて、言葉に出来ない何かを求めるように彼に手を伸ばせば、その手を優しく掴まれてきゅっと包み込まれた。

おれよりもすこしおおきくて、乱雑に巻かれた包帯の隙間から覗く綺麗な彼の手。


「…嗚呼、やっぱり久しぶりに見るまーくんの顔は、すごく可愛いな」

「…ぅ…ぅ゛うう…っ」


とめどなく流れて俺の頬を伝う涙を、彼の指が優しく拭う。
とても愛しそうな表情で微笑んで、でもどこか切なげな雰囲気を漂わせていた。
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