17
繋いだ彼の手に縋るように、無意識のうちに強く握り返していた。
少しの間だけそんな泣きじゃくる俺を見て優しく微笑んでいた蒼は、不意に俺から視線を逸らす。
「椿」
「ぁ?」
そして、真剣な声でそう低く呟いた。
恐る恐る顔を上げると、最早顔が見えないほど薄暗い部屋の隅で、壁に背を預けていた御主人様がチラリとこっちに目を向けていた。
動揺したまま何を言うのかと蒼を見上げれば、彼はその形の良い唇を動かした。
「誓え。俺が死んだら、まーくんを解放するって」
「…ぇ…、」
「ああ、誓う。何度でも誓ってやるよ。俺が一度だって約束を破らない生き物だってことは、お前が一番良く知ってるだろ?」
淡々と抑揚のない声に対する返答はない。
(……)
開いた口が塞がらなかった。
背筋が凍る。
嫌な予感がする。
…いや、嫌な予感どころじゃない。
そんな生易しい物じゃない。
…だって、”俺が死んだら…”…、死んだらって、死ぬ…?
死ぬって誰、が…?
…なんで…?
俺は今、どんな顔をしていたんだろう。
こっちに視線を向けて困ったような表情を浮かべた彼に、不安に覚える小さい子どもを落ち着かせるように頭を撫でられた。
「まーくん」
「ぇ…?ど、いう…え…」
「ちょっとだけ、目を閉じててくれる?」
「…ぁ…、」
するりと重ねていた手が、離れる。
触れていた体温がなくなって名残惜し気に手が宙を彷徨う。
床に置いてあった鋏が、拾い上げられる。
「…っ、ぁ、…」
困惑した言葉だけが行き場を失くす。
鈍い頭で、目の前の出来事を視線で追う。
バクバクと鼓動が狂ったように鳴る。
…蒼が何をしようとしているのか。
なんとなく察して、心臓がひっくり返るような心地になった。
「まって、」
カラカラになった口腔内のせいで声が掠れる。
自分でも聞き取れない程小さな声で呟いて、どうにか制止したくて、やめさせたくて、ぎゅっと震える手でその服を掴む。
「…まって、まって…どうして、なんで、まって…」
「困ったな…。そんな顔見たら、…置いていくのがちょっと惜しくなってきちゃった。…泣かないで。大丈夫だから」
「…やだ…っ、おれは、やだ…っ」
必死で彼の腕を掴んで、鋏を奪おうとする。
そんな俺に、こっちを向いた彼は酷く優しげな表情で目を細めて微笑んだ。
幼い頃に見た、彼の今にも泣きそうな笑顔に似ていて目が離せない。
「今まで、何回も邪魔してごめん。…まーくんに好きな人が出来たら嫌で、想像もしたくなくて…まーくんに誰かが近づくのが許せなくて、…俺はまーくんの幸せを奪った」
「うばってなんかない…っおれはずっとずっと、…しあわせで、」
蒼と一緒にいて、それだけですごく幸せで、蒼がわらってくれたらすごく安心して、
ごめん、と申し訳なさそうに彼の眉が下がる。
「だから本当に、今までのことは全部まーくんのせいじゃないんだよ」
「そんなの、もうどうでもいい…ッ、だから、だから…っ」
そんなことどうでもいい。
もうどうでもいいんだ。
そんな顔をさせたのは自分なのに、そのことで蒼を責めたのは俺なのに、そんなことに気を取られる余裕なんかなかった。
「…でも、やっぱり…。まーくんがアイツを好きになるように、そう思うように、言うように、誘導されたんだってわかってても、”好き”なんて…まーくんの口から、聞きたくなかったな…」
「…すき…?なにを、い…」
そこまで言って思い出した。
…そうだ。俺は、さっき蒼の前で、言ったじゃないか。
俺は御主人様のことが大好きだって。
俺はこれからもずっと御主人様の物だって。
「…ぁ…」
「…これからは変な奴に捕まっちゃだめだよ。…自分で、本当に好きな人を見つけて幸せになって。…俺はもう、守ってあげられないから」
「ちが…っ、」
彼はそう言って、ふわっと儚げに少し寂しそうに微笑んだ。
そして、真っ青になって震える俺の後頭部に触れた。
抱き寄せられる。
前、蒼に別れを告げられた時のことを思い出す。
…近づけられる顔に、ビクッと震えて身構えた。
そんな俺に、一瞬傷ついたように彼は目を伏せる。
無意識の自分の行動にしまった、と思った時にはもう彼との距離はほとんどなかった。
「愛してる。これからもずっと…まーくんだけを愛してる」
「…っ」
……でも、何かが触れたのは唇ではなくて。
彼はとても愛しそうに…今にも泣きそうな表情で、俺の額に口づける。
瞬きなんてできなかった。
瞼を伏せた彼の綺麗な顔。
額に触れる微かな吐息。
柔らかい感触。
……それはほんの一瞬の出来事で、気づいた時にはもう彼は俺から離れていた。
そして。
彼が自分に鋏を向けるまで、1秒。
俺の硬直した身体が動きだすまでに2秒。
世界の速度がやけに遅くなったように感じる。
「…―――――ッ」
声にならない絶叫が上がる。
屋敷で蒼に”ばいばい”と言われた時のことがフラッシュバックして。
嫌だ。嫌だ。もう、嫌だ。
あんな思いをするのは、もう、嫌だ。
手を伸ばす。
…あの日、お母さんに手を伸ばしたのと同じように。
今度は、彼が持っている鋏を、”そう”させないために必死に手を伸ばす。
間に合わない。間に合わない。間に合わない。
(また、おれは…っ、また…っ)
「やめ…っ、」
「…どうか、今度こそ本当にまーくんが幸せになれますように…」
「…ッ!」
祈るようにそう口にした彼は、ためらうことなく自分の身体の中心部に刺そうと刃を向けて。
「や…っ、」
「…ッ、」
微かに届いた俺の手は、少しその軌道をずらしただけで。
鋭利な刃先は、容赦なく彼の身体に突き刺さった。
――――――――――
二度目のさよなら。
…心臓が、うるさい。
俺はまた、自分の幸せのために誰かを殺した。
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