19

地面に両手と額を両方抉れるくらいまで擦り付ける。
お願いします、お願いします…と何度も何度も言葉にした。
事態は一刻を争っていて、そのせいでバクバクと急かすようになる心臓に悪寒がして身体がはちきれそうになる。


「…あ?何言ってんだ。俺がソレを助けるわけねぇだろうが」


有無を言わさない口調で、ぴしゃりと跳ねつけられた。
その冷たい声音に、ぐ、とガサガサで乾いて恐怖で青ざめる唇を歯で強く噛み締める。


…わかってた。
きっと御主人様は助けてくれないって。

だって、蒼を助けてくれるなら…おれに蒼を殺せだなんて命令しないはずだから。
こんな状況に、なってないはずだから。

だから、…わかってた。

わかってたけど、



「…っ、」


…こんなにはっきり拒否されるなんて、
蒼が今にも死にそうなのに、その鼓動が弱まっているのに、


(…なんで…、…なんで…っ)

地面についている傷だらけの手が、悔しさと恐怖に震える。
助けてくれないってわかってても、俺が今縋れる相手は、御主人様しかいなくて。
他に俺が助けてって言える相手なんかいなくて。

…だから。
絶対に、諦めるわけにはいかない。
絶対に蒼を…死なせたくない。


「……ま、…約束しちまったから、家畜は解放してやっても」

「お願いします…っ、蒼を助けて下さい…っ!なんでもします…っ。蒼が助かるなら、蒼を助けられるなら…俺なんて、どうなっても良い。だから、」


俺なんかどうなったっていい。なんでもする。なんでもするから、…だから、だから、蒼を、どうか。

…助けて。

手枷を嵌められた手を、伸ばす。
少しだけ鎖は音を立てて伸びて、…でも、ドアの傍にいる御主人様の場所までは届かない。

御主人様の目が少しの間静かにこっちを見て、瞬きをした。
壁から背中を離して、靴音を立てながらこっちに近づいてくる。

ハッと嘲るように息を吐く音と、面白がるように少し上擦った声。


「へぇ?なんでもするっつったよな?ソレが助かれば、お前は本当に”なんでも”するんだな?」

「します…っ、なんでもします…っ、なんでも…ッ…が…っ」


首輪から伸びる鎖を掴まれて、グイと上に強引に持ち上げられる。
無理に首だけ持ち上げられて、そのせいで気管が締まって血流が止まった。
ドクドクと頭が、首が、嫌な音を立てる。
思うように息ができなくて、苦しい。
首から上に血がいかなくなるのを感じて顔を歪めた。

御主人様は、そんなおれの苦痛に歪む顔を見て、目を細める。
クツクツと可笑しそうに喉の奥を鳴らして嘲り嗤った。


「じゃあ、今ここで死ねよ」

「…っ、ぁ゛…」

「素手じゃやりにくいだろうから…せめてもの慈悲だ」


「ほら」という声と同時に、手に握らされるナイフの柄。

…声はご機嫌な時のものなのに。
それと反対に…すぐ近くで、何故か今までにないほどの怒りと嫌悪感を滲ませて俺を睨み付ける鋭い獣の様な切れ長の瞳。
ジャリ、と鎖の音を鳴らして更に強く釣り上げる様に鎖を引っ張られた。
身体全体が持ち上げられて、足が宙に浮く。


「…っや゛…っ」


バタバタと必死に逃れようと足と手を動かす。
額に滲んだ汗が頬を伝って床に零れる。

こんなことしてる場合じゃない、
早く、はやく蒼を…たすけないと…

焦って段々酸欠で視界がぼやけていくおれに対して、やけに緩慢な動作で今思いついたというように、ああ、と小さく言葉を零した。
唇の端が歪に弧を描く。
視線がおれから逸れて、蒼のいるだろう場所に向けられた。
その瞬間、彼の瞳に宿る負の感情の色が一気に増す。


「…お前が死んだあと、助かったソレの前で死体のお前とセックスしてるのを見せる…っつーのもイイな。ソレの目が覚めたら、一番最初に入ってくるのは俺と死体になったお前の二度目のセックスシーンってわけだ。はは…っ、おもしれぇ…ッ」

「…っ、ぐ…ッ」

「自分が死んで助けた奴のはずが、自分を助けるために死んでるんだぜ?しかも、ソイツの穴に他の男がチンポを突っ込んでる。それを見て知って絶望するアイツの顔、見られんならそれも悪くねえな」

「…っ、」

「まぁ、…次はお前を助ける為だなんて偽善ぶったことほざかねえで、すぐにでも自殺しちまうかもしれねえけど」


ハッと嘲るような笑い声。

枷の端の部分が首に食い込んでくる。
ぐぐぐと締められる気管で、必死に「ぁ゛…っ…」と声を絞り出した。

そうすると少しだけ緩められた圧迫に、それでも苦しい状況に耐えて辛うじて言葉を零す。
手に握った柄を軽く握る。


「…っ、は…ッ、……もし……もしおれが死んだら…本当に蒼を…助けてくれますか」

「…助けてやるっつったらどうすんだよ」

「死にます」


躊躇いなんかしない。
蒼を助ける為なら、…彼の死を見ずに済むのなら、俺の命なんか惜しくない。
どうだっていい。どうなったって、構わない。

多分、そうしたら蒼のしてくれたことが、なんの意味もなくなってしまうんだろう。
そうわかっていても、俺には他に蒼を助けるための手段なんかわからない。
方法なんかしらない。

でも、せめて死ぬなら蒼が生き続けられるという事実を見てから死にたいかもしれない。
…きっと蒼はすごくすごく怒るだろうけど、すごくすごく傷つけるんだろうなって思うけど、自分が死ぬことで誰かがその命を長くすることができるなら…それは幸せなことなんだろうなって思、


「っ、」


そこまで考えた瞬間、首の圧迫が消えた。
持たれていた鎖から手が離れて床に身体が崩れ落ちた途端、手の甲に鈍い痛みが走る。
激痛にうめき声が漏れた。

…蹴られた。
そう気づいた瞬間には、手から弾き飛ばされたナイフが床に転がってカランカランと音を立てる。


「…ッ、…さげんな…っ」


ナイフが転がっていった方向を目で追っていると、怒りを滲ませた声音が投げつけられた。
強い恨みのような感情の籠ったその声は震えていて、乱暴に吐き捨てられる。
どうしてそこまで御主人様が怒るのか理解出来なくて、呆然と彼を見上げた。
不快そうに眉を寄せて、何か俺が許されざる罪を犯したかのように身体を震わせて口調に怒気を滲ませている。


「…ふざけんな…っ、クソ…ッ、クソ野郎…!!死にたがり野郎が…!!」

「…っ、ぅ…」


ガンッ、

勢いに任せたまま何の遠慮も加減もなく、腹を蹴られて遠くに蹴り飛ばされる。
一瞬腹部を抉った靴先が臓器を圧迫して息が止まる。
宙に浮いて、直後肩と背中に強い衝撃がきた。
転がって咳き込む。


「…か…っは…ッ」


唾液か胃液か血液かよくわからない色のものが口から零れた。
ただでさえ体力のなかった身体は、あちこち激しい激痛を伴って、それだけで意識を失いそうになる。
最早痛い部分が多すぎてどこが痛いのかもわからない。
ぐらぐらと揺れる視界に、それでも俺は気を失うわけにはいかなくて。
必死に身体に力をいれて、床についた手で起き上がろうとした。


「お前はソレを助けたいんじゃなくて、死にたいだけだろうが…!!死にたがり野郎…っ」


でも、自分で起きあがる前にそんな罵声と共に、また首に繋がれた鎖を掴んで引っ張られる。
直後、すぐに顔を殴られた。
頬と舌の肉を歯で噛んだせいで、ガリッと変な音がして鉄の味が滲んでくる。


「…お願いします…あお、い…を…」


こんなことしてる間に、蒼が死んでしまうかもしれない。
その恐怖がずっと体内を渦巻いていて、何故御主人様が俺が死のうとしただけでそんな泣きそうな顔をしているのかとか、怒っているのかなんてそんなことまで気が回らない。

ただ、視界の端に映る蒼が心配で心配でたまらない。

…蒼を失うことが、他のどんなことよりも…他の何を失うよりも、…ずっとずっと…どうしようもないほど怖くて堪らない。
想像するだけでゾッとして、狂いそうになる。
一瞬でも気を緩めたら頭がおかしくなるような気がして、自分の身体が、心がひたすら震えているのを感じる。

御主人様が息を呑んで、ぐ、と唇を噛み締めた。


「…っ、…ッなんだよ…っ!!家畜にくせに…っ家畜の、くせに…ッ!!」

「………?」


顔に何かが軽く触れる。
水のようなその感触に瞬きをして、蒼を見ていた顔をゆっくりと上げて視線を御主人様に戻す。

…目を軽く見開いた。

瞳に涙を滲ませて必死に歯を食いしばりながら、不愉快だという感情を露骨に表している。
苦しいというように苦痛に歪んだ顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
…まさか御主人様がそんな顔をするなんて思わなくて。
そんな表情を浮かべるようなことを自分がしたと思えなくて。

ただ戸惑うことしかできない。


手でぎゅっと握られた鎖を掴んで前後に激しく揺さぶられた。
クソ…っ、クソ…ッと詰るように何度も苛立ちを含んだ声で吐き捨てる。


「”捨てられてもいい”…?お前が俺のモンになるって言ったくせに…!!好きだっていったくせに…!!お前は結局…優しくしてくれる奴なら、傍にいてくれる奴なら何でもいいんだろうが…!!」

「…っ、」


その言葉が胸に刺さる。
否定できない自分が余計に自分を責めて、その通りだとも違うとも、何も言えずに俯く。

そのまま鎖ごと胸を強く押されて、床に放り捨てられた。
直後、何か物を投げつけられる。
それは当たっても全く痛くない程小さくて身体にあたった瞬間、チャリと小さく音がした。


「…やっぱり、家畜は所詮家畜だったっつーことだな…。自分のことしか考えねぇ。…お前なんか…っ、お前なんか信じるんじゃなかった…ッ」

「………」

「あーあ、もうわけわかんねぇ…!!わけ、わかんね…。どいつも…っ、こいつも…ッ…アイツも…っ、結局自分で勝手に決めやがって…っ勝手に…」


低く泣きそうな声で、ぐ、と胸が詰まったかのように涙でぐぐもった声をぷつりと切る。
顔を片手で覆って、ふらりと彼の身体が揺らめく。
乱雑に床に腰を下ろして顔を伏せた。
髪が顔にかかる。
「…いらねぇ…」と不意に疲れ切った声で小さく言葉を零した。
俺には目もむけずに、俯いたまま呟いた。


「…勝手にしろよ。お前なんか、もういらねえ。お望み通り、捨ててやる。…顔も見たくねぇ…っ、…早くどっかいけ。俺の前から消えろ」

「……っ、……………はい……」


それ以外何も言える言葉がなくて…小さく頷いて顔を下に向けた。
さっき御主人様が投げた鈍く光るソレ。
…小さい、鍵のようなもの。

(……枷の、鍵…?)

鎖を外してここを出たからと言って、誰が助けてくれるかなんてわからない。
…誰も、蒼を助けてくれないかもしれない。
もしかしたら誰かを探すだけ無駄かもしれない。

…でも、今は…その見もしない誰かに助けを求めるしかない。

一瞬躊躇って、でも急いで全ての枷の鍵穴に差し込んで外す。
カチャリと小さく音が鳴って、コトンとそれらは床に落ちた。
これで、この部屋に俺を閉じ込める物はもう何もない。


「…っ、」


息をする間もなく、駆け出した。
鎖のない解放感に酔う時間なんてない。


「たすけてください…っ、だれか…ッ、だれか…ッ」


無我夢中で走って、はだしのままコンクリートの階段を上る。
久しぶりに自分の足で走ったせいで、力がうまく入らなくて何度か転んだ。
皮膚が擦り向ける。
血が滲む。

ここがどこかなんてわからない。
自分がどんな格好で走っているかなんて考えない。

とりあえず誰かを見つけないと。
時間がない。
きっともう、時間がないんだ。
走ってる間にも、きっと蒼の鼓動はどんどん弱まっている。

もしかしたらさっきの時間でもう、手遅れになってしまったかもしれない。

…そう思った瞬間に、途方もない恐怖に襲われる。血の気が引いて、足が止まりそうになる。

だめだ。後ろ向きなことを考えたら何もできなくなる。
とりあえず俺には誰かを探すしか手段はない。
他にできることなんかない。

だから。


(誰か、誰か…っ)

バタバタと、いつか見たことのあるはずの風景を見ても何も気づきもせずに、そんな余裕もないほど板の上を必死に走る。


「…っ、」

「…え、」


ドンと角を曲がった瞬間、何かにぶつかった。
その反動で身体が軽く後ろに下がる。
転びそうになった瞬間、腕を掴まれた。
支えられる。


「…まふゆ、くん…?」
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