20

その聞き覚えのある声に一瞬小さく震えて、顔を確認する余裕もなくその手に縋りついた。
時間がない。
時間がない。
一分一秒でも惜しい。


「どうし、」

「かなたさん…っ」


眉を上げて驚いたようにこっちを見下ろして目を見開く彼方さんに、声を荒げた。
助けをくれそうな人に会えた嬉しさに心底安堵しながらも、でも今はそれよりも焦燥感のほうが勝っていて、とりあえず何か言わないといけなくて、蒼のことを伝えて急いで来てもらわないといけなくて、なりふり構わずに飛びつくようにぎゅううとと両手で彼の服を握った。


「蒼を…っ、蒼を、助けて…っ、ください…ッ!!」

「…っ、わかった場所は――…」


おれの言葉にすぐに緊急性を察してくれたらしく、真剣な表情をして頷く。
対応の速さに安堵して場所を示そうと身を翻した瞬間、

その行動を引き留める様に腕を掴まれた。


「…ッ、かなたさ」

「…あおい、さま…?」

「…え…」


彼方さんがおれの腕を掴んだんだと思って、時間がないのにと焦って振り払おうとした途端、腕を掴んでいる手が違う人のものだと気づいた。
男の人よりもっと細くて小さい、女の人の手。
そして、聞こえてきたか細く震える鈴のような声。

ずっと彼方さんの傍にいたのかもしれない。
まったく気づいていなかった。
戸惑ったように酷く頼りなげな顔でおれを見上げて、その唇を開く。


「蒼様に、何かあったの…?」

「…っ、ぁ…」


その言葉にビクッと肩を震わせて青ざめる唇で小さく言葉にならない声を絞り出せば、おれの頭に何かが触れる。
顔を上げれば、彼方さんが頭を撫でて「落ち着いて」と優しく声をかけてくれた。
微かに微笑んで、女の人の方を向く。


「今はそれについて聞くより、蒼の居場所を教えてもらうほうが先でしょう。…真冬くん、案内してくれる?」


彼方さんも焦っているはずなのに全くそれを表情に出さない。
蒼を助ける方が先、と言われて口惜しそうに唇を噤んだ彼女はじっと促すようにおれに目を向けた。

彼方さんがそうやってゆっくりと落ち着かせるように言ってくれるからその落ち着きぶりと優しい体温に触れて少し取り乱していた頭が冷静になる。
こくんと頷く。


「はい、ついてきてください…っ」


蒼の無事を何回も何十回も数えきれないほど祈って、すぐさっきまでいた場所に戻るために走り出した。

―――――――


「…っ、これ、は…」


部屋に入った瞬間、女の人が顔を顰めて手で口と鼻を覆った。
異臭とその床に散らばっているものをみて本能的に嫌悪したのかもしれない。
でも、その目は床に倒れている蒼の姿を視界に映した瞬間一変する。
心配そうに青ざめた表情で眉を寄せて、すぐに駆け寄った。
高そうな着物が汚れるのも構わずに傍に膝をつく。


「蒼様…!!あおいさま…っ、あおいさま…ッ」

「妃さん、あまり動かさないでください。下手に動かせば蒼の死期を早めることになる。」


悲痛の声で蒼に触れようとした女の人を彼方さんが窘めて、ハッと慌てたように手を止める。
オロオロと困惑した表情で、隣で同じように蒼に近づいてその状況を観察している彼方さんを見上げた。


「わ、私はどうすれば…っ」

「すぐに屋敷に医者を呼んでください」

「わかりました…っ」


バタバタと部屋から走り去った彼女を見送った後、真剣な表情のまま少しだけ蒼ともう一人の倒れて血まみれの男の人…市川、さんに視線を移して。

それから彼方さんが不意にこっちを向いた。

どうすればいいかわからなくて、ずっと扉の傍で立ちすくんでいるおれにちょっとだけ困ったように微笑んだ。
立ち上がって近づいてくる彼方さんに身体が強張る。

ぼけっとしていて、まるで変な夢を見ているかのように全く回っていなかった鈍い頭を動かす。


「…ぁ…、あの…」


何を言いたいのかわからなくて、でも何か言わないといけないような気がして視線を床に向けて言い訳するように唇を動かした。
ぼろぼろに破れて汚い自分の浴衣の裾を握って、近づかれるのが怖くて半歩下がろうと足を後退させる。


「…真冬くん」

「…っ、ごめ、ごめ…なさ…」


気遣うような声に、なんだかすごく申し訳ない気分になって。
小さくずっと震え続ける唇で反射的に謝って、ぶんぶん首を振る。
違う。今は謝りたいんじゃなくて。

彼方さんから少し離れたまま、恐る恐るずっと聞きたかったことを問う。


「…あの、あおい…っ、蒼は…っ」


だいじょうぶなのだろうか。
助かるのだろうか。
そもそも、まだ生きてくれているのだろうか。

そんな不安で心臓が押しつぶされそうになりながら、おれが後退した後から一歩も近づいてくることなくそこで足を止めている彼方さんに呂律のうまく回らない口で懸命に問う。
自分の鼓動が煩い。
恐怖と不安でどうにかなってしまいそうだった。
じっと反応を待つ俺に、何かを彼方さんが答えようとしたのか唇を動かした瞬間だった。


「そこにいる者を捕らえて」


そんな声と同時に、スーツ姿の大勢の男の人が部屋の扉の方から入ってくる。
皆無表情で、まるで仮面をつけているような顔で近づいてくる。


「…ぇ…、ぁ、…っ」


それが怖くて、また後ろに下がろうとして、でもすぐにその距離は縮められる。
何が起きてるのかわからないまま、声の主を見る前に抵抗も出来ずにその何人もの男の人に腕と頭を掴まれて床に身体を押し付けられた。
頬に触れる冷たいコンクリートの床の感触。
思いきり床に押し付けられたせいで頬の皮がすりむける。
掴まれている腕に食い込む指が痛い。
床に押し付ける様にして頭を押さえている手が痛い。


「お前ら…ッ、なにやってる。やめろ…っ、その子から手を離せ…!」

「離すことは私が許しません」

「…っ、これはどういうことですか」


彼方さんの声が聞こえる。
その声は硬く、怒りを含んでいた。
それに応える女の人の声は、もうさっきのように狼狽えてはいない。


(…おれ…なんで、)


まるで犯罪者をとりおさえるような、そんな雰囲気にドクドクと心臓が変な音を鳴らして酷く気持ち悪い。
状況が把握できなくて、いきなり取り押さえられて、どうしてこんなことになってるのかまるでわからない。

床に押しつけられているコンクリートのざらざらした感触が頬に食い込むのを感じていると、視界に見えた蒼の周りに白いひらひらした服のようなものを着た人が近づく。

別にこうやって押さえつけられた瞬間はそれに抵抗しようとか思わなくて、むしろまだ頭はすごく冷静な方だったと思うのにその光景を見た瞬間に、平静を保つどころか頭の中が真っ白になった。

それが蒼に危害を加えようとしているようで、一気に全身から血の気が引く。
恐怖が激しく胸の底で蠕動する。

必死にその人たちから蒼を守ろうとして、暴れて手を伸ばしても、すぐにその手を掴まれて背中に回された。
無理に腕を後ろに回されたせいで骨がミシ、と軋むような音がする。


「…っ、ぁ…っ、あおいに、何するんだ…っ」

「何をそんなに青ざめているのかわかりませんが、お医者様をお呼びしただけですよ?」

「…いしゃ…?」


頭がうまく回らないまま、当然のようにさらりと言われた言葉を繰り返す。

いしゃ、なんて、そんなの

…あれ、でもさっき彼方さんが医者を呼べっていってたんだっけ、

よく覚えてない、けど…でも…


『真冬、医者にだけは絶対に会ってはだめよ』


い しゃ …?


お母さんにあんなに言われたのに。

医者は敵だって、悪魔だから近づかない方がいいって、あの人たちに見つかったら人生最後だって、面倒なことになるからって、だから…だから絶対に身体の怪我を見せちゃいけないって、…言われて、
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