21

…その、はず、なのに


「…っ、」


…違う。医者に診てもらうことはいいことなんだ。早くそうしないと間に合わなく、…

だけど、お母さんはお医者さんはだめだって、言ってて、危ないし、…ちゃんと言われた言葉には従わなくちゃいけなくて、…だから、…?


…昔の記憶が今に侵食してきて、植え付けられたことと、もう既に是正されたはずの概念とが混ぜ合わさってぐちゃぐちゃになる。

どうなって、なんで、こんな風に、…どうして、自分がわからない。


「や…っ、やめて…ッ、蒼に触らな、いで…っ」


そんなわけもわからないまま…ただ、必死に触れようとする。

…でも、やっぱり手は届かなくて、

それどころか傷口がたくさんある頭部を手で強く掴まれているせいで塞がっていたはずの傷がズキリと割れる様に痛む。

ピリッと冷たい氷を当てられたような感覚が頭を駆け抜けて、額から血が流れてきた。
ドクドクと頭が心臓になってしまったかと思うくらい血の流れる音がする。

眩暈。
痛み。
再び襲ってくる痛みに塗れる悲鳴を飲みこもうとして反射的に途中で口が閉じてしまう。


「…っ、どう、して……っ、なんで、蒼を、助けてくれな…っ」

「先程から、貴方は何をおっしゃっているのですか?」


怪訝そうに、鬱陶しそうにこっちに視線を向けた彼女は軽蔑するように侮蔑の表情で瞳を細める。

囲まれて最早見えなくなってしまった蒼からその人たちをどうにかして離したくて無我夢中で身体を捩って蒼白になっているおれに、

言葉を、吐いた。


「人殺し」

「っ、」


(…ひと、ごろし…?)

一瞬言われた言葉の意味をすぐに理解できなかった。

何を言ってるのかわからなかった。

その唇の形を見て、自分でもう一度その動きに合わせて小さく唇を動かしてみてやっと何を言われたのか理解する。

彼女の視線が、蒼からその少し遠くで倒れている男の人の方に向けられる。
血まみれの液体の中、声もなくそこに横たわっている。

彼女の恐ろしいものを見るような瞳、人間ではないものを見るような視線に胸がドクンと鈍い音を鳴らす。

(、ひとごろ、し…)

その目が最後に見たお母さんの目と同じで


「…っ、ぁ゛…ッ」


…――怖い、怖い、怖い。

走馬灯のようにまた同じ光景が脳裏を駆け巡ってくる。

これからもきっと、おれが生きている限り何度も何度も何度も何度も嫌でも思い出してしまうんだろう。

お母さんのこと、蒼との過去のこと、市川って人を刺した時のこと

おれの前で蒼が自分を刺した時のこと
今の今まで蒼が死にそうだってことで頭が一杯だったせいかもしれない。
…自分が実際に他の人に何をしたのか…本気で頭の中から抜け落ちてしまっていた。


「……、」


呆然としたまま何も言い返せずに、そんな風に見てくる目が怖くて反射的に目から逃れたくて瞳を伏せた。
そんなおれを見ていた彼女は疑惑が確信に変わったようにその表情を変える。


「人殺しのくせにいい人を演じようとしないでくださいますか。…気持ち悪い」

「……ぁ…っ、…おれ…っ…おれ、は…っ」

「それにその服なんですか?汚いし醜い」

「…っ、」

「貴方のようなみっともない物の傍に蒼様が一時でもいらっしゃったというだけでもう我慢ならないのに、あまつさえ私の大切な蒼様に手を上げておきながら心配するようなそぶりまで見せて…」


彼女の汚物をみるような目が、すっとおれの身体を上から下までなぞるように動く。

髪の毛はずっと長い間風呂に入ってないせいで血や汗が固まっていて。

服はボロボロに破れて精液とか血とか…言葉では言い表してはいけない程の他の色々な汚いもので汚れてしまっている。

…確かにおれは今…人間だなんて呼べるような格好をしていない。
多分彼女の目におれが酷く醜く、家畜以下の動物のように映っているんだろう。


それに比べて彼女はすごく綺麗な着物を着ていて、ちゃんとした生活を送ってきたんだろうなって見ただけでわかる。

…誰がどうみても彼女の言ってることは正しい。

そう言われても、仕方ない。

だから、そんなおれが何かを言い返せるはずなんかなかった。

彼女はただひたすら俯いて震える俺を尻目に、ふぅと失望を交えたため息を吐いた。


「我慢の限界です。一秒でもこの部屋にいたら蒼様が穢れてしまいます。医者が何かもしらない人間なんて聞いたこともありません。教養を少しでも身に着けていればわかることでしょうに。貴方のお家柄の程度が知れます」

「…っ、ぅ…」


言葉が鋭利な刃物のように胸に刺さる。
棘のように刺さったその物体はその事実から目を背けようとすればするほど食い込んでくるようで。
俯いた顔が上げられない。
耳を塞ぎたくなる。聞きたくないと全身で叫びたくなる。声を上げたくなる。
でも、手も足も掴まれている状態ではそんなことできるわけもなくて、せめて目をぎゅっと瞑る。
でも、嫌でも耳から届いてくるその言葉に冗談でなく本気で身が引き裂かれそうだった。


「妃さん…、貴女は…ッ」

「そこにいる蒼様の名を騙っていた愚か者も連れ出して頂戴」

「…っ」

「一之瀬家の御子息は蒼様”一人”だと伺っております」

「……」

「つまり、貴方は蒼様の名を騙った不届き者。許しがたい事です。どういうつもりでそんなことをしていたのかは知りませんが…。私が愛し尽くすのは蒼様であり、貴方ではありません。貴方を蒼様だと思ってしまったのはわたくしの一生の汚点となるでしょう」


嫌悪の感情を全く隠そうともせずにそう告げる彼女の声。
その幾つもの言葉が脳には届かずに、全部処理しきれない単語となって右から左に通り過ぎていく。

彼方さんは、どう思っているんだろう。

…俺も、彼と蒼の過去について前に一度少しだけ聞いただけだから全部知ってるなんて言えなくて、ほとんど知らないことばかりだ。

…でも、それでも、この女の人は…彼女は、蒼を愛していると言葉ではいいながら…蒼の周りのことを何も知らないんだと思った。


「…蒼様を傷つけたそこの者に関しては殺しても飽き足らないくらいですが、そうすると私が犯罪者と呼ばれてしまいますからそんな野蛮なことは致しません。貴方みたいな人と同類の人間にはなりたくないですし」

「…ちが…っ、おれは、蒼を」

「…だから。だから…っ早くその人殺しを私と蒼様の見えないところにやって…!この屋敷から追い出して…!!」

「……ッ」


最後には高く叫ぶような声と同時に、頭を押さえつけていた手が消えた。
それに気づいた瞬間、掴まれていた腕を引っ張られて床に押し付けられていた身体を持ち上げられた。
無理矢理立ち上がらされる。
いきなり立ち上がったせいで眩暈で視界が歪んだ。
人の骨の構造を全く考慮しないその乱暴なやり方で、ゴギッと骨が軋むような音がして思わず痛みで額に汗が滲む。


「歩け」

「…ぁ…っ、や…ッ」


低い機械の様な男の人の声音が背後でして、何か言葉を発する間もなく引きずられるようにして歩かされる。
無意識のうちに足を踏ん張って、首を振った。
そうした瞬間、鬱陶しそうに舌打ちをするような音と同時に左右両方の腕を掴まれて部屋の外に出されそうになる。
全身の力を使ってその手を引き離そうとして暴れても、まともに食事さえしてなかった俺の力が体格のいい男の人達に敵うわけもなくて。


「…クソ…っ、さっさと歩けクズが…!」

「…っ、」


それでも抵抗し続けていると、顔を思い切り殴られた。
ほぼ瞼の上を殴られたせいで眼球に激痛が走る。
視界が真っ赤になる。
歩かせるのも面倒だと思ったのか、意識が飛んだ瞬間に腕で抱える様にして無理矢理連れ出された。
チカチカと点滅する視界に抗うように、ふらりと手を伸ばす。
指の先が痺れそうな程必死に、辛うじて動く手だけでも近くに届かせたくて。
蒼の方に、蒼がきっといるだろう方向に、見えない景色に必死に手を伸ばした。


「…――ぁ…ッ」


小さく声が漏れる。
見えなくてもわかる。

…おれと蒼の距離が、どんどん遠くなっていく。
蒼の姿が、見えなくなっていく。


(…ッ、いやだ…っ)


このまま蒼をここに置いて、自分だけ追い出されるなんて。
こんな状況で、蒼の傍から離れるなんて

そんなの

絶対に嫌だ。

いやだ。いやだいやだ。


「…いやだ…っおねが…ッ、おねがいします…っ、」

「……」

「…ッ、まって…っ、あおいのところに…っ、おれは、まだあおいといっしょに…っ」


蒼と、まだ一緒に

どれだけ叫んでも祈っても、俺を追い出そうと歩く足が止まるわけはない。
板を踏みしめる音が、歩く振動が。
無情にも俺に蒼との距離が遠くなりはしても、決して近づくことは許されないのだと告げてくる。

追い出されてしまったら、もう蒼が無事なのか、それさえ確認することができない。

…蒼が助かるかなんてわからない。
助かってほしい。生きていてほしい。

そう願っている。そうなることをずっと心の中で望んでいる。

…でも、あの怪我で助かるなんて…そんな奇跡みたいなことあるのか。

もし、蒼が死んでしまったらどうしよう。
蒼が俺の知らないところで、死んでしまったらどうしよう。

そう考えるだけでも身が凍ってしまうそうな程の恐怖が心臓を包み込んでくる。
俺がいるからって何かできることがあるわけじゃない。

でも、

けど、もし本当にそうなってしまったら。

…もう二度と…俺は、  蒼に  何も


「………はは、」


呆然としたまま、自嘲を含んだ情けないほど乾いた笑みを零す。
持ち上げていた手をゆっくりと下ろした。

何を言うつもりなんだ。
蒼に会って、もし蒼が生きていて、何を言うつもりだっていうんだ。

…おれが今更、蒼に言えることなんて何もないのに。

ざわついていた心が膨み、震え、揺れ、痛みに何度も何度も刺し貫かれる。

目の痛みが多少収まってきて、ほとんど視界が見えるようになった頃。
そこはもう、見覚えのある部屋の中ではなかった。

少し頭を動かせば、庭が見える。
外に繋がる板の上をスーツ姿の男の人によって無造作に連れていかれながら、玄関の方に向かわされていく。
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