23
「……お前…やっぱり…」
「…ぇ…?」
酷くなってきた雨に加えて、よく耳を澄ませないといけない程小さな呟きで聞き取れない。
そんなことよりも、ドクンドクンとやけに音の鳴る心臓に呼吸ができない。
心臓が狂ったように早鐘を鳴らして神経が壊れそうなぐらい鋭い痛みを作り出す。
雨で冷えた身体が芯から凍えて痛くて、でもそれ以上に激痛を産む部分がある。
「はは、ざまあねえな。お前のそういう顔、本当最高」
「…っ、」
「これで諦めもつくだろ。生きてても死んでても、アイツは二度とお前と一緒にはなれない。もう決定事項だからな」
「…にどと…?」
「お前だって言ってたんだろうが。お前の友達とやらに。アイツのことは恋愛対象とかじゃないんだって。ただの”トモダチ”なんだってな。だったらアイツが誰と一緒になろうが、幸せになるのを喜んでやるのがトモダチってもんだろ?」
「……っ、でも、」
自分が何を言おうとしているのかわからない。
その言葉を否定なんてできるわけがない。
だって、全部全部、俺がしてきたことで、その言葉は間違ってないんだから。
なのに。
それなのに。
俺は別に蒼のことを、そういう意味で好きなわけじゃないはずなのに。
「…でも……おれは、あおいと…やくそく…」
それでも、どうにかして何かを変えたくて頭で考えるより先に声が漏れる。
まだ言葉を話しだして間もない子どものように自分でも驚くほど舌足らずな言葉。
縋るような言葉を口にした。
でも、
「無理だ」
考える間もなく、はねつけるように一言で返される短い台詞。
その冷たい顔を見上げる。
何も考えていないように見える瞳が怖い。
感情のない瞳が怖い。
息を浅く吸った瞬間、その唇が形を作る。
「アレはもう、」
「っ、」
「二度とお前の傍にいることなんか、でき」
「…っ、ぅ…―――――――…っ!!!」
嗚咽とも絶叫とも呼べない様な声が咽頭を破る。
言葉を遮るように声を出して気づいたら身体が動いていた。
土砂降りの雨の中、裸足で無我夢中に走る。
自分が今どこを走っているかなんて認識する余裕もない。
熱い。全身が熱い。
頬から零れる何かがヒリヒリと肌に染みる。
「…っ、ふ…っ、う…ッ、ぁ…あああ…ッ」
悲痛な嗚咽が漏れる。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
どうしてこんなに胸が痛いんだろう。
わからない。
わからない。
わかりたくない。
喉の奥が震える。
目頭が熱い。
なのに身体は凍える様に冷たくて。
足の裏に当たる砂の感触が痛い。
真っ暗で見えない視界の中、ほとんど息もせずに走った。
(…あ、)
まずい。
心の中でぽつりとそんな声がする。
唐突に膝から下に力が入らなくなった。
ガクンと崩れ落ちる。
それと同時に一歩踏み出した瞬間、踏みしめていたはずの地面がなくなった。
気づかないうちに崖の方まで来ていたらしい。
揺れた視界の中、鈍い光を放つ何かが手から宙に放り出されたのが見えて、「…待…っ」
それが蒼から貰ったネックレスだと気づいた瞬間に多分今までで一番情けない声が漏れた。
(…死ぬ、かも…)
そんなことを思った瞬間、ふわりと浮いた身体が転がり落ち、一気に地面に叩きつけられる。
激痛。呼吸がとまった。
(…今日何度目だろうこの感覚)
いい加減に笑えないぐらい怪我をしている気がする。
「…ぃ…っ、」
頭を打ったせいか、視界が真っ黒になる。
さっき落ちる瞬間消えた雨の音も、次第に耳で捉えられる。
雨に濡れた砂が口の中に入ってきた。
(…おれ、もう死ぬのかな…)
すぐにネックレスが手の中にないことに気づいて、やっとのことで頭だけを少し起こして慌てて必死に周りをのろのろと手探りで探す。
もしかしてどこか離れた場所に落ちたのだろうか。
(…ない…)
泣きそうになりながら探して探して探して、でも結局見つからない。
「…あおい…」
ぽつりと小さくその名を呼ぶ。
その声は雨にかき消されて自分の耳にさえ届かない。
うまく思考は回らないのに、そのくせさっきからひとつのことばかり考えている。
怠くて、酷く眠くて、もう指一本も動かせそうになくて、地面に倒れ込んだ。
「……(…あおいは、…どうおもったんだろう…)」
俺が、御主人様と一緒にいて…あんな酷いことばっかり言って…ナイフまで向けて
…どう、思ったんだろう。
傷つけたかな。
「………」
それに。
…どうしておれは、蒼が結婚するって聞いて、他の人が好きなんだって思って、あんな気持ちになるんだろう。
「……っ」
今だって、痛い。
「…ちいさいころした…あおいとの…やくそく…」
呟いた瞬間、景色が変わる。
それは、雨の降る森の中ではなくて。
わかれぎわの光景でもなくて。
ちいさいころ住んでたいえの、…おれのへや。
初めてみる光景。
それを見た瞬間、…やっぱり昔のことを全部思い出せたわけじゃなかったんだと知った。
遠くから絵本を見るような感覚になる。
「……(…あれは、おれと、…あおい…?)」
ちいさいころのおれと蒼がてをつないでいた。
おれはすごくすごく嬉しくて、それが見てわかるほど幸せそうにわらっている。
”…あのさ…くーくん…”
”……なに”
”…くーくん、…おれと…おおきくなったら、けっこん、してください”
”…けっこん?”
”うん。なんか、くーくんといっしょにいると、どきどきするんだ。むねがぎゅーってぎゅーってなって、くるしくなって、でもずーっといっしょにいたいっておもう”
唐突なおれの言葉にたいしてキョトンと驚いた様な顔をするあおいに、おれは無邪気にそんなことを言う。
結婚、なんてその歳でよくわかってるはずもないのに。
いきなりそんなこといわれて、あおいがうん、なんていえるはずのないのに。
それでもその時のおれはそのくらい、あおいとずっと一緒にいたいと思っていた。
結婚っていうものをしたらずっと一緒にいられるようになるんだと思ってた。
ふたりともちいさいけど、でもつないだ手から体温がつたわってきて、ひとってこんなにあったかいんだって知って嬉しかった。
おれはうーんうーんとかんがえて、ひっしに言葉を伝えようとしていて、
”こういうのなんていうんだっけえっとえっと…だいすき…?まえにだれかが言ってた”
”……”
”くーくんといっしょにいるときは、ほかのひとといるときとぜんぜんちがうんだ。こころがふわふわして、いきてるんだっておもう。しあわせ。”
目をぱちぱちとさせてただ驚く顔をするあおいに、おれは足をばたばたさせて思ったままを伝えていた。
あまり反応のないあおいにふあんになってきて、そのかおを覗き込む。
すこしこわくなりながら、でもかくにんしたくて…問う。
”…おれとけっこんしてくれる?”
”….................おおきくなったらな”
てれたようにプイとそっぽをむくあおいに、おれはほっとして、それからへへっとうれしくてわらって。
ふいになまえを呼ばれてきょとんとするおれに、あおいはしかたないな、というようなひょうじょうをして。
でもすぐに、”…やくそく”なんて口調はぶっきらぼうなのに、やっぱり少し照れくさそうに呟くから、そんなあおいにまた幸せな気分になって笑った。
「…――っ、」
そこで、記憶は終わった。
その時の感情が、封をされてた箱がいきなり爆発したように全身に広がっていく。
好き。
好きだという感情。
他の友達とか知り合いに対する感情とは違う、何か別の感情。
どきどきして、あったかくて、今まで感じたことのない感情。
「…ぇ…?」
込み上げてくる怖いくらいの何かに、鈍い反応しかできない。
そんな情けない声が喉の奥から漏れる。
今見た光景が、衝撃的過ぎて言葉が出ない。
…蒼の言い方だと、おれは誰かとずっと一緒にいたくて、蒼と恋人になるって約束をしたって感じだった。
おれも、そうだったのかもしれないって思ってた。
今まで誰かを好きになった記憶も、誰かを本当に心から大事に思った記憶もなかった。
だから蒼のことも、他の人が言うように、蒼が言うように、好きじゃなかったんだって、思って…
おれは、今まで恋とかしたことないからこの気持ちが何なのか、それと同じなのか違うのかもよくわからない。
でも、今まで感じたものと全然違うことはわかる。
明らかに、友達に対するものじゃなくて、
…それに、俺がいま見た光景は、感情は、あおいじゃなくて、むしろおれの方が蒼を――
「…っ、」
…もしかして。
(…おれ、おれは…)
あの時、
ほんとうに…、
「………あおいのことが、…すきだった……?」
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