20

後ろ手にまーくんを庇いながら振り向けば、…一人の女がいる。

長い髪の女。

その制服はぼろぼろに汚れて破れていた。


「…まーくん、」


行こう、と促して若干警戒しながらまーくんの腕を引いて歩き出そうとした瞬間、
「…、金本…さん…?」と、困惑したように呟かれた名前。


「最近、学校に来てなかったから心配…して、…でも、どうして」


こんな場所で、と安堵と半分戸惑った表情で続けてその唇が形作る。

(…かねもと…?)

一瞬何か引っかかって、思い出そうと脳内を探った。
聞き覚えがある。


「…、」


思い出した。

…以前まーくんを利用した女の名前。
俺に良く思われたかった為に、まーくんに近づいた卑怯な女。

屋敷の人間に引き渡したはずなのに、どうやって逃れたんだろう。
というか、まだ生きてると思わなかった。

とりあえず、その女は何故か俺ではなくまーくんに対して鬼の様な顔で怒りの目を向けている。
その瞳からはぼろぼろと涙を零して、責めるような口調で詰る。


「どうして…っ、どうして真冬くんばっかりそんなに大事にされるの…?」

「…っ、え…」

「いつもいつもいつも一之瀬君は真冬くんばっかりで、それ以外は目にも映してくれなくて、向けてくれたとしてもすっごい冷たいし…そうやって見てくれたのだって全部あんたから一之瀬君に言ってもらわないとしてくれなかった…!」

「…かねもと、さ…」


「あんたさえいなければ…っ!!あんたさえいなければ…っ私は一之瀬君に好きになってもらえたかもしれないのに…!!」


「……」


声を上げて泣く女から視線を逸らす。

…まーくんは何も悪くないのに。もし万が一責められるとしても、俺の方だろう。
逆恨みも甚だしい。


「帰ろう、まーくん」


しかし今は言い返している余裕がない。

…これ以上変なことを言われる前にまーくんを連れてこの場を去りたかった。
まーくんに余計なものを見せたくなくて、気づいて欲しくなくて、強く掴んだ腕を引く。


「…ぁ、」

「……まーくん…?」


…でも、

すぐにまーくんの様子がおかしいことに気づいた。
掴んだ腕から尋常ではない程の震えが伝わってくる。
口元を掌で覆って、蒼白な表情のまま、女から逃げるように足が後退する。


「…ぁ…ッ、おれ…っ、おれは…っ、」

「っ、」

「痛…ッ、痛い…っ」

「……どうし、」

「やだ…っ、嫌だ…!!!怖い…っやめろやめろ…やめろ…!!!やめ…っ、…ッ、」

「……まーくん…っ」


掴んだ手は無茶苦茶に暴れる腕に振り払われた。
そうして苦しそうに喚いて、ぐらりとよろめいて身体を倒れさせる。
「…やめ、やだ、いやだ…っ!、」まーくんは地面に崩れ落ちるようにしてしゃがみこんでしまった。

頭が痛いのか頭部全体を腕や手で庇うようにして蹲っている。
ひたすら痛い、痛いと小さく悲痛まじりの言葉を零しながら、ぼろぼろと涙を零していた。

…でもすぐにそれが違うものに変化する。


「…ぁ…っ、」


肩の上下が激しくなって、ハッハッと呼吸の速度が速くなった。
同じように腰を落として覗き込めば、さっきよりも更に顔から血の気が引いている。
ただでさえ白いのに、今はそれ以上に真っ青だった。

…過呼吸。

明らかにその症状を引き起こしていた。
動揺を表に出さないように気を付けながら、恐る恐る身体に触れる。
それだけのことで、ビクッと震えるまーくんに一瞬手を引っ込めそうになった。


「…大丈夫。大丈夫だから、」

「…は…っ、は…ッ、ぁ…、…っ」

「大丈夫。…まーくん、ゆっくり深呼吸して」


背中を擦りながら、ぼろぼろに涙を零して身体を震わせるまーくんに声をかけながら、予想外の事態に混乱していた。

(…突然、なんでこんな…)

過呼吸、なんて…。

確か強いストレス状態になったときに起こる症状って聞いたことあるけど、今までなかったのに。

…どうして、

今、そういう何かまーくんに強い刺激を与えるものがあった…?
あるとすれば、…女の言葉の中しかない、けど…。

思考を巡らして、…すぐにわかった。


「…(嗚呼。そっか)」


まーくんに関して書かれた資料の内容。
まーくんの記憶喪失の引き金になった事件。

…その母親が言った言葉。


(…まーくんは、やっぱり、…)


瞼を伏せる。


「…おかあさ…っ、何、これ……なんで、おれ…っ、は…っ」

「まーくん、俺がいるから。…怖いことなんてもうないから」

「…っ、」


何度も何度も何度も、そうしてずっと声をかけ続けていると、苦しそうに息をする音が段々と静かになる。

少しずつ発作が収まってきたらしい。
そんな様子に、ほっと安堵に胸を撫で下ろした。

それでも、ぶんぶんと首を振って、「ちが…っ、違う」と否定して、涙の余韻を残しながら何かを探すように手が宙を彷徨う。そしてまだそこに何かがあるみたいに自分の手を見つめて、嗚咽まじりの声を漏らす。

そんな姿を見ていられなくて、その手を優しく握った。…冷たいな。

だけど、まだ意識はこちらに向かなくて、もう一度名前を呼ぶ。

言葉に反応したのか、それでやっとまーくんの視線がこっちに向けられた。
その濡れた瞳に俺が映りこむ。

握った手を掴んで、ふわりと抱き寄せた。


「…俺が傍にいる。まーくんが望むならずっと傍にいる。…だからまーくんは何も心配することなんかないよ」

「…、っ、……」

「…大丈夫。大丈夫だよ」


しばらくの間、ずっとそうして声をかけることを繰り返す。


「………ん……」

「……少しは、落ち着いた…かな」


どこか呆然としたような、今泣いたばかりなのにまたすぐにでも泣き出しそうな子どもみたいな表情で俺を見上げるまーくんに良かった、と息を吐いて微笑んだ。

その額から頬を伝って顎から地面に汗が零れ落ちる。

よくまーくんがやってくれたように安心させるように、髪を撫でた。
長い間そうして、もう大丈夫かなと思ったころに「帰ろうか」と言って軽く身体を少し離す。


「……ぁ…」


瞬間、

聞こえる、最早声とは呼べない程小さくて…泣きそうに震える声。

でも、俺の耳はそんな小さな音でも聞きのがさずにしっかりと捉えて、
腰の少し上の部分の服を掴まれたのがわかった。

と。

その場所をぐいと少し強く引っ張られて、身体が軽く引き寄せられる。


「…――――……っ、」

「ッ、」


(……―――え?)


涙の名残を頬に残しながら、俺の首に両腕を回して抱きしめてくる。
夕陽に照らされて茶色がかった色が更に綺麗な色に染まって、その髪がふわりと頬を掠める。

…耳元で呼ばれた名前、は…聞き間違えかと思うほど。


それは一瞬で。


「…今、…なんて…」


言った…?

聞き間違え…?

いや、違う。
俺が、まーくんの言葉を聞き間違えるはずがない。




”くーくん”    って、…。


俺の戸惑いを隠せないほど震える声に

返ってきたのは寝息だけで。


「………っと、」


ずるずるとまーくんの身体は力を失くして崩れ落ちていく。
反射的に腕で支えた。

高鳴る鼓動を感じる。
ドクン、ドクン…、


「…なぁ…まーくん、」

「……」

「俺のこと…思い出した…?」


そう呟いた俺の唇は震えている。
動揺を隠しきれない心は、まーくんを支える腕さえ小刻みに震えさせていた。
少しその身体を倒して、その血の気の引いた頬に触れる。

(…寝てる…)

だから当然返ってくる反応はない、んだけど。
さっきの言葉が、どういう意味か…どうしても気になって。


「………」


首を振る。
…いや、ここで考えていてもどうしようもない。
まーくんを無理矢理起こすわけにもいかないし。

…このままだと風邪を引くかもしれない。冷えてるから余計に心配になる。

はぁと息を吐いた。

…仕方ないから、一旦思考停止。
非常事態ということで。


とりあえず近い方のまーくんの家に向かおうとして、気絶するように眠ってしまった膝と脇の下に腕を差し込んで、身体を抱き上げる。さっきのでくしゃくしゃになってしまった制服のワイシャツやネクタイが乱れて、いつもより肌の露出が高くなっている。白くて、…汗ばんだ地肌。


「…(ばれたら怒られそうだな…この格好…)」


よく小説とかで見る、…お姫様抱っこ、みたいな。
…本当に、まーくんは綺麗でお姫様っぽいから困る。

さっきのまーくんの発言を考えないように必死に違うことを思考しながら、周りを見渡してみる。

…もう既に、先程叫んでいた女の姿はなかった。
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