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…――いらない。まーくんなんか、もういなくなっていいよ。


(……ッ、くー、くん…?)


冷たく、吐き捨てるような声。
濃い紺色の浴衣を着ている彼は、いつもの優しい瞳を零度以下に染め、おれに背を向けた。


(…嗚呼、)

これは、夢だ。
ぼんやりと、霧のなかでそんなことを思う。

わかってる。わかってるんだ。

最近ずっとこんな夢ばっかりだし、もう、見慣れてるから。
昔はこう言ってくるのはお母さんとお父さんだったのに、いつからかくーくんに変わっていた。

なのに、夢だってわかってるのに、夢の中のおれは真っ暗などこか知らない場所で、必死に彼を追いかけていた。
ぼろぼろと涙を零して、息も思うように吸えなくて、


(…や、だ、捨て、ないで)


やだ、やだやだやだやだやだやだ…っ、

だって、お母さんもお父さんも、もういないのに、

だから、くーくんがいないと、

  くーくんが  いなく、なったら…、


「…っ゛、ぁ、」


…瞼が、開く。

ひゅ、と喉が冷たい空気を吸った。「…げ、は…っ、」咳か呼吸困難か、よくわからないけど、うまく呼吸ができない。
遠くにぼんやりと見えた障子に、意識するより前に安堵する。

…顔が熱い。身体が横を向いているせいで、ぽろぽろと瞼から横に、重力に従って肌を伝いながら下に落ちている感触がした。頬を伝う、…ぬるい、感触。


「…っ、ふ、」


シーツをぎゅっと掴む。震える唇を噛んで、腕を瞼の上に乗せた。

夢の余韻か、込み上げてくる涙がとまらない。
意識すればするほど、後から後から熱い瞼が熱を押し出してきて、裾を滲ませた。
心臓が、ぎゅっと掴まれているように苦しい。



「…ぅ、え…っ、」


…寂しい。
寂しい。さみしい。さみしくて、堪らない。

もう、ひとりはいやだ。ひとりきりは、いやだ。
くーくんに会えない…こんな生活は、嫌だ。


「…そう、だ。何か、役に、たつこと、しないと…」


泣いてる場合じゃない。泣いてる、場合じゃ、ないんだ。

涙を、拭う。

そうじ、…うん、はじめは、掃除にしよう。
掃除するなら、ぞうきん、がいるけど、ここの部屋にあったかな。
…でも、勝手なことするなって怒られたら、どうしよう。そうだよ。ここ、おれの家じゃなくて、くーくんの家だし。さぁっと全身から血の気が引く。…今更不安になってきた。

それからさっき、ジャラ、と何か金属が擦れるような変な音がした気がして、音の方を見る。


「……?」


なに、これ。
…と、不意に、腰のあたりに何か圧迫があることに気づいた。行動が妨げられる。


「…な、に、…?…っ、」


あった、かい。
振り、返った。

まだ靄のかかっていた視界が、晴れる。
飛び込んできた光景に、…目を、瞬いた。

わなわなと、信じられない思いで唇を動かす。


「…くー……くん…?」


彼が、いた。

ひく、と喉の奥が震える。


もうずっと、何日間もいなかったはずの彼は
……すぐ後ろで、おれを抱き締めるようにして、眠っていた。


今まで見たことのないような…酷く幼い表情で瞼を閉じている。静かに、起こさないように、身体ごとそっちを向く。


「……っ、」


久しぶりに見た、大好きな顔。
一瞬躊躇って、でも、恐る恐る手を伸ばして、その綺麗な黒髪に触れてみる。
おれが触っても、起きるそぶりがない。…もしかしたら、こんなにちゃんと眠っている姿をみるのって珍しいかもしれない。

そうして触れていると、ほうっと身体から力が抜けていくのがわかった。安堵感。満足感。足りなかった何かが、埋められたような幸福感。

「くーくん、くーくん、だ…」彼に触れているはずの手さえ、目に溜った涙のせいでぼやけて見えにくくなる。いつ、戻って来てたんだろう。…良かった。ちゃんと来てくれて…本当に良かった。いまだに涙の余韻が残る頬にぽろりと雫が零れて、へへ、とその柔らかい感触に、気を緩めた。


「…ん、…」

「…っ、」


ひたすらくーくんだって確かめたくて、確認したくて、ぼろぼろ泣きながら髪を撫でていると、その整った唇から零れる吐息。
びく、と震えて、手を、離した。
手から、やわらかい感触が消える。



「…まーく、ん…?」

「…っ、」


瞼がゆっくりと開くのを見て、急いで後ずさって距離をとる。
そして、彼の瞳がこちらを映した瞬間、驚いたように見開かれた。
狼狽したような、表情。


「なんで、泣いて…」

「…ぁ、の、おれ…っ、わ、」


頬に触れようと、近づけられる手。

その手を避けようと、反射的に立ち上がろうとして、

…と、手首から伸びていた”ソレ”を踏んだらしく、「ぎゃ、」身体が後ろに倒れそうになる。

直後、「…っ、まーくん…ッ、!」焦ったような声、と同時に腕を強く引かれた。
「…っ、…」結局、彼の腕のなかに飛び込むような体勢になって、息を呑む。
くーくんの、匂い、と…体温がすぐ傍にある。



「…やばいな、俺」

「…、ぁ、…くー、く…?」

「まーくんが転ぶって思っただけで心臓が止まりそうになったよ」


「本気で末期かも」なんて苦笑しながら、おれの身体をぺたぺたと触って怪我がなさそうなのを確認したらしく、ほっと心底安堵したような表情をする。


そんな姿をどこか夢を見ているような感覚で眺めながら、

…くい、とその袖を引いて、見上げた。
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