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恐らく行われていただろう先程までの”行為”のせいで、男が歩く度にその足と床一面に広がる液体が音を立てていた。
「…ていうか、何にも聞かないんだ。どうして俺がこんなことをしたのか、とかさ」
「……」
…目の前までくると、ようやくその顔をはっきりと認識することができる。
(…思ってたより、若い…?)
顔の造りが丁寧だからだろうか。
遠くから見た時は、あまりにもその雰囲気と顔立ちが尋常じゃなく大人びているせいで二十代後半ぐらいだと思ったのに、…想像以上に若そうだった。
なんとなく、じいっと見つめている
…と、
こっちに歩みを進め、同じように見つめ返してきていた男の瞳が不意に動揺したように揺らぐ。
「…っ、」
「……?」
「…ちょっとくらい、目を逸らしてくれてもいいんだけどな」
照れるよ、だなんて、羞恥心など更々抱いていなさそうな冷めた瞳を困ったように細めながら甘ったるい言葉を零す。
それから、”それ”を持っていない方…右手に嵌めていた手袋の袖口の部分を軽く噛んで、ゆっくりとその手から引き抜いた。
ぺちゃ、外したそれが水音を立てて床に落ちる音。
そして、「触ってもいい?」と聞いたくせに俺の返答を待たず、手のひらが首筋に気遣うように触れてくる。
「……っ、…冷た、」
「嗚呼、ごめんね。…心があったかいからかな」
氷のように冷たい、最早死んでるんじゃないかと思うほど冷めきった指に、思わずびくっと肩が跳ねた。
くすくすと笑って零される冗談のような軽い台詞とは裏腹に、この場の空気は重い。
しかも、謝っただけで首筋から頬にかけて這わされる指は退かされることはなかった。
「…あの…さ、」
「ん?」
「…それって、本物?」
さっきからずっと気になっていたもの。
下げた視線を追い、男の目が、俺に触れている場所から自分の左手へと、向く。
「ああ、これ?」
左手を持ち上げ、”そこ”からぽたぽたといまだに床に垂れている液体を色味のない瞳で見下ろしていた。
「心配しなくても、君は殺さないよ」
「……」
「…なんで、だと思う?」
にこり、とわざとらしいほどの笑顔を浮かべ、先程と同じような台詞で俺に問いかけてくる。
(なんで、って、)
この男とは今日が初対面だ。
だから存在すら知らなかったし、そもそも全く関わったことのない人間の頭のなかなんか予想できるはずもなくて、
……否定を示すために小さく首を振った。
俺の返事を最初からわかっていたらしい男は残念がる様子もなく、「殺せるわけないんだよ」と自嘲ぎみに笑いながら軽く瞳を伏せ、肩をすくめた。
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