のような願いだと知っている

「また、あの子達ばかり構ってたのね?」
信子――従一位の左大臣を父に、同じく従一位の関白で色付きにを兄に持つ、俺の正室だ。この様子だと、側室に妬いたのだろうか。
「仕方ないだろ…世嗣ぎの問題とか、いろいろ抱えてるんだから」
「そうね。それなら仕方ないわね。けど…くれぐれも側室には権力を持たせないでよね?お家騒動になっても知らないんだから」
お家騒動。この時代の大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くある。こうした内紛は大名家中で解決するのがならわしのはずなのだが、問題を幕府や本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定を頼んだ当事者もいるので、幕府側の俺が頼まれる側に立つこともあった。…自分の家柄のせいで、こうなるくらいなら。
――もしかしたら幕府の将軍にならなかったほうが、幸せなんじゃないか。
「…何考えてるのよ?」
「いや…なんでもない、から」
だが、今の自分の状況を受け入れていない、という訳ではない。養子とはいえ、この国の実質上の支配者として、武家社会を含む社会全体の頂点にいることは自覚しているし、そもそも「征夷大将軍」の座自体、気軽に降りれるようなものではないこともわかっている。
「信子、」
「…何かしら」
「もし俺が将軍じゃなかったら、どんな風に接してたんだ?」
「そうね…貴方が将軍じゃなかったら…もっと楽に接していたと思うわ」
「確かにな…前までは館林藩藩主だっただろ?その時点で責任は重いのにさ…養子として江戸城に迎えられて、さらに将軍宣下を受ける事になるとは思いもしなかった…」
「私も、貴方が藩主だった頃から側にいたけれど…まさか私が大奥に入るなんてね」
「あの時の父さんが何を考えていたのか全くわからない…将軍になんてなりたくないって言ったのにな…」
やはりこの家の大人は世の中の事ばかり考えており、本人の都合など何一つ考えてはくれないようだ。正直なところ、俺も「幕府の将軍」の看板を降ろし、普通にひとりの人間として振る舞える日を心待ちにしているのだが、それはどうも許されないらしい。
その証拠というのだろうか、俺は基本的には「将軍様」か「上様」と呼ばれる。名前で呼ばれたとしても、大抵はその下に「様」か「殿下」がつく。…父や母は流石にそうは呼ばないが。
「…そうね。少しは本人の意思を尊重してほしいわ」
「親が敷いたレールの上を歩かされるのは、本当に嫌だよな…」
「でも、貴方は受け入れたのでしょう?」
「まあな…将軍にならなきゃ、できないこともあるから」
「どういうことよ」
「前の幕府を変えるのは、今の幕府しかないってことだ」
「確かに、そうかもしれないわね」

そうしているうちに何も言わずとも朝にはなってしまうし、政務も入る。政務が終わらないとなかなか自由になれないのは少しつらいけど、この手で世の中を変えられるならもう少しは将軍でいてもいいや、なんて。


従一位の左大臣(じゅういちい - さだいじん)、従一位の関白( - かんぱく)→太政官(だいじょうかん、日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関)の中の位。
お家騒動( - いえそうどう)→江戸時代の大名家における内紛。現代においては、比喩的に企業(同族経営の社に多い)や家族といった組織における内部抗争をお家騒動に擬えて呼ぶことがある。
大名家(だいみょうけ)→大名は石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のことであり、大名家はその家のこと。
館林藩(たてばやしはん)→上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩(現代で言う都道府県)。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。
藩主(はんしゅ)→現代で言うと都道府県知事。
家老(かろう)→武家の家臣団(かしんだん、将軍や大名など武家に仕える家臣層・家臣の集団)のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。現代で言う党首。