幸福の見る

『俺が御台様を奪い取るかもしれませんよ?』
そのようなことができたなら、どれほど幸せだろうか。第一、御台様は俺が仕えている上様の奥方だ。しようとしたら、まず俺は切腹に処される。されなかったとしても側用人からは廃されるのだろう。
「ん?何考えてんだ、獄寺?」
「…山本か」
山本は俺と同じく、上様の側用人だ。この幕府で初めて側用人という職についたのは彼なのだとか。
「おう!どうした?」
「もし自分が好きになった人に相手がいたら、奪い取ろうと思うか?」
「うーん、思うなー」
「じゃあその人のお相手が…自分の直属の上司ならどうすんだよ?」
「…え?」
それは、紛れもなく自分の本心。
「難しいなあ…問題はその上司が、本心から縁を結んだのか、だな」
確かに、本心からではない可能性は充分にある。
何せ上様は将軍だ。将軍の婚姻の相手を決めるのは本人の意思では難しい。本人が気に入った女性を側に置くのなら、側室の方が確実だ。
「そうだな。将軍だったら老中に決められてる、ってことも……」
「…獄寺が奪い取ろうとしてるのってもしかして」
「聞かれてたか…」
「ああ。ばっちり声に出してたぞ!…聞かれてないとは思うけどな。将軍様は今政務中だしな」
とりあえず一安心。さて、どうするか……。


***


「武、隼人がどうしたって?」
「何か聞きたいことがあるそうで」
この間と同じように、側用人の隼人に呼び出される。
「開けるぞー」
がらりと引き戸を開けた。

「上様、少しばかり聞きたいことがあるのですが」
「ん?なんだ、隼人」
「御台様を選んだのはどなたであらせられますか?」
誰だっけ。信子と婚礼の儀を結ぶまで会ったことがなかったから、当時の俺は選ぶという感情はなかったのかもしれない。ただ、周りに押し流されただけ。
「多分、俺じゃなかったと思う。老中の話し合いで決められたんだろうな」
「左様ですか。でしたら、」
隼人の目が、急に真剣になった。
「あなたは御台様のことをどう思っておいでですか」
撃ち抜かれる。
「老中に言われるがままに、利用しているのですか?」
「…いや、そんなつもりじゃ、ない」
「御台様とはあくまで契約上ということでよろしいので?」
「まあ…契約、だな」
ここまで言いかけて、信子に対する自分の意識に気づかされる。側室がいるし仕方がないという面はあっても、この間信子を泣かせてしまったこともあり、隼人の言葉はやけに強く響いていた。
「では、俺が御台様に惹かれていると言っても、何も言いませんか?」
そう、だったのか。だからこのような質問を投げかけてきたのか。俺は信子に対する覚悟ができていない、だから信子を幸せにするに値しない。
――俺は、まだ弱かったのか。人の上に立つのも、側室を持つのも、まだ俺には早かったのか。
「…そうか、そうだったんだな…っ!」
崩れ落ちる。
「上様?」
もう何も考えさせないでくれ、頼むから。

そこで、俺の意識は途切れた。


老中(ろうじゅう)→江戸幕府の役職のひとつ。複数名がその職にあって月番制で政務を執った。