幻想を見た旅人は

かつて俺は1年ほど船医として勤務していた。その後、東インド会社の基地があるバタヴィアへ渡り、そこで医院を開業しようとしたが、うまくいかなかった。
そこで、行き詰まりを感じていた時に巡ってきたのが、当時鎖国により情報が乏しかった日本への便船だった――

シャムを経由して日本に行った俺は、オランダ商館付の医師として、出島に滞在している。俺の担当は専ら手術で、オランダにいた時から使っているメスは手に馴染んでいる。
そんな俺だが、ある日商館長から江戸参府をせよとの命令が下った。
「江戸参府…?」
「商館長は年に1回江戸に参府して、将軍に謁見しなきゃなんねぇんだよ」
「なるほどっ♪って、俺も行くわけ?」
「まあな。…ったくわざわざお前まで呼び寄せやがって、あのカスは…」
…そういえば、今の将軍って誰だっけ。確か綱吉とかっていったような――そこの側用人がやたら将軍を重んじていたのは知っている。


***


江戸まで渡るのに、3カ月かかった。ようやく着いた時には外出を禁じられ、ヨーロッパの言葉を書いた紙を捨てないよう命じられた。
そこで将軍――綱吉と拝謁することになる。
蘭国からよく来たなー…まあ隔離させている側の俺が言うのもなんだけど。一行、名前と年齢を述べてくれ」
非常に教養のある人物、それが第一印象だ。けれど、征夷大将軍として一国のトップに立っているだけの威圧感はあり、普段は自分以外の人間を「カス」と見下す傲慢不遜な商館長でさえも、這って進み出なければならない程だった。敬語を使わなくてよいと言ってくれたのが唯一の救いだ。
「それで、西洋医学の現状はどうなっている?」
「ああ、今は医薬品の開発も進んでいるよ。病院とかは整いそうにないが、医者も増えてるし――」
それから、オランダの作法――オランダ流のあいさつ、ほめ方、酔っぱらいのふりや抱き合うふり、などを実演した。

「隼人、奥の間に案内してやれ」
「承知致しました」
そこでは御簾越しに、30人ほどの貴婦人たちがこちらを見ていた。
「御簾の奥にいるのが俺の正室だ。…信子、」

『…綱吉?と…』
『信子さん、誰が…』
『確か今日はオランダ商館の人が来るって、』
御簾の間から顔が見えたのが奥方だろう。ヨーロッパ人を思わせる黒い瞳が生き生きと輝いている、清らかな女性だった。後ろの話し声は側室たちだろうか。
「御台様、ねえ…しししっ♪流石、将軍と結婚できているだけあるな」
勿論、色々な意味で。

鎖国(さこく)→江戸幕府が、キリスト教及び日本人の出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策。ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態を指す。
シャム→タイ王国のこと。この呼び名は20世紀まで使われた。
オランダ商館( - しょうかん)→オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。元は平戸にあったが、のちに出島に移された。
出島(でじま)→長崎港内に築かれた人工島。面積3,969坪(約13,000m2)で4区画に分かれ、オランダ人、日本の諸役人、通詞の家や倉庫など65棟が建っていた。
商館長(カピタン)→江戸時代、東インド会社が日本に置いた商館の最高責任者。年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見した。本編ではXanxusがこの職。カピタンはポルトガル語で「仲間の長」の意味。
蘭国(らんごく)→オランダのこと。蘭とはオランダの漢字表記「和蘭陀」を略したもの。