パンジーが見つめた午後
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親元を離れてからもなんとなくその意識から出るのを、そのトリカゴから飛び立つのを心のどこかで恐れていた。手はここを出たいと扉を叩くけれど、足は踏み出せないと震えていた。
そんな私のトリカゴの鍵を開けてくれたのが、ミネルヴァ先生だった――
それからというもの、私は彼を頼りにしている。
――いや、『頼る』というよりは『縋る』の方が正しいのかもしれない。
彼によって扉は開かれたというのに、今度は自らとらわれていく私がいる。望まず親にとらわれているよりは望んでいるだけまだ良いと、無理矢理に自分を納得させて、正当化させてまで。
『君はとらわれている状態に慣れきって、それが当たり前だと刷り込まれたのかもしれないね』
先生の言う通り、かもしれない。いや、きっとそうなんだ。
***
逢うのは、決まって仕事が早めに終わる金曜の午後。それまでは、ただの担任と副担任。
ミネルヴァ先生は私を巻き込んだお詫びという名目をつけて、職場でも学年主任と話し合った上で色々便宜を図ってくれているらしい。仕事を終わらせなければ逢うのも遅くなってしまうという結論に至ったのだろうか。
今日は学校がないので、午後と言えども早めの時間に待ち合わせ。昼食は先程自分で済ませたばかりだ。
この間の駅前のホテルで、彼が鍵を持って戻ってくるのを待つ。
入る場所は、いつも同じ部屋。
部屋に入るなり、私達の勤め先の学校の制服を手渡される。
「ちょっと外に行ってくるから、これを着て待ってるんだよ?」
「これ…エマちゃんのですか、」
「そう。交渉して手に入れたんだ」
彼のことだから、案の定エマちゃんを巧く丸め込んだのだろう。
先生が扉を閉めたら、渡されたそれに着替える。私とエマちゃんの服のサイズが同じということもあり、破れることもなくするりと袖が通せた。
――もしかして、この間連絡先を交換したあとにそのことを訊いてきたのは。
そう考えれば、全て合点がいく。
それから何分か過ぎて、再び扉は開く。
「似合ってるよ、…偉い偉い、」
ふわり、とまた頭を撫でられたかと思えば、顔が先生の方に向けられ、目を合わせられる。
「…少し崩れちゃってるね、」
「わっ、…どうしよう、」
――崩れたところを見せてしまった。
そう焦ってしまう私に、彼は丁度いいと返す。
「丁度いい、って…」
「 そのままの意味だよ?…わからない?」
「…直す、ってことですか、」
「うん、そう。…それ、貸してくれるかな?」
言われるがままに、ポーチを渡す。
「じゃあ、そこ座って?…『開けていいよ』って言うまで、目を閉じてて」
「わかりました、…先生、」
備え付けの椅子に座り、瞼を閉じる。粉が目に入らないようにと考えたのだろう。
ポーチのジッパーが開くのを耳で知ったあとは、されるがままだ。
「…よしよし、先生好みにしてあげる」
***
最初はあんなに戸惑っていたのに、まるで嘘のように縋り付く自分がいる。
いつの間にか、逢うのが習慣化してしまっている。今までの自分からすれば、考えもつかないことばかりだ。
――いや、よくよく考えれば今までと同じだ。とらわれる対象が、親からミネルヴァ先生に移り変わっただけだ。
制服姿を見られたら色々と問題になるからと、夕食は先生が調達してくれた。汚さないように、備え付けのローブを羽織る。
ローブを脱いだ後はリップグロスを塗り直されて、また――
「せんせ…?」
当たり前と思うようになってきたとはいえ、地に足がつかなくなりそうな、この感覚は今でも少しだけ怖い。親が厳しかったのは、私に何にも溺れないような生き方をしてほしかったからだろう。
それでも、それを知られればさらに追い詰められるのはわかっている。だから――隠さないと、いけないのに。
「…どうしちゃったの、」
また。見抜かれてしまった。
――いや、私が彼の特徴を忘れていただけだ。
ミネルヴァ先生は、他人の心の機敏などに非常に気づきやすい。それは生徒が相手でも、私のような後輩が相手でも変わらない。
だから、何を隠してもどうせ気づかれると、最初から受け入れた方が楽になるのかもしれない。
倫理を教えているからこうなるのか、それとも。
いつもなら、先生を前にしてもすらすらと話せるのに、言葉が詰まってしまい何も話せない。
それを見かねた彼が、私の背中をさする。
「少し、…怖いんです、」
「何が?」
「浮いているような、それでいて沈んでいるような…そんな感覚が、抜け出せなくなりそうで、」
「そう…相変わらず君は流麗な言葉でものを言うんだね、」
よしよし、と頭を撫でられる。撫でるのが好きなのだろうか。
「でも、大丈夫だよ。何も怖がらなくていいの。先生が見ててあげるから、」
そんな先生が、一番怖いのに。
それを言い出せない私は袖を軽く摘んで、いっそのこと楽にしてほしいとせがむ。
「…怖いの、もう嫌です…っ、楽にして、ください…っ!」
「あーあ…火、付けちゃったね?」
――これ、逆効果だったかも。
そう思うのも遅かったらしく、いつもよりワントーン低い声で呟かれたと思えば、肩に手が置かれる。そのまま下に押されて、 目の前が天井になった。
上のライトが少しだけ眩しくて、思わず目を伏せてしまう。前までは、流石にこうはならなかったのに。
それとも、前までのはまだ滑り出しで――これから少しずつ、堕とされていくのだろうか。
「なに、するんですか、」
「先生を揶揄っちゃいけないよ、」
――彼の機嫌を損ねてしまったのではないか。
そうやって焦ればまた、宥められる。
「せんせ…っ、嫌…でしたか…?」
「ん、大丈夫だよ?…ねえ、」
先生は、私に何を言うつもりだろうか。
「…僕はね、まだ完全に君をとらえてはいないんだよ」
何を言っているのか。あんなに私を堕とそうとしておいて。
「今ならまだ、君の言うトリカゴの鍵は開いてる。君の意思次第でどうにだってできるってこと。…前に、逃げるかどうか訊いたよね?」
「…はい、」
あの時は見捨てられる恐怖から、咄嗟に逃げないことを選んでしまった。捨てる以外なら何でもして構わないと、だから側に置いてほしいと口走ってしまった。
もう一度、はっきり選び取らせたいということだろう。
「あの時は、君も怖かったんでしょう?だからあんな回答をしたんだと思う」
「それは…あります、」
「改めて訊くね。――選んで、**」
名前を呼ばれたことに動揺する暇もなく、選択を突きつけられる。
「飛び立って自由になるか、それとも――完全にとらわれて、僕の手の中に堕ちるのか」
「せんせ…そんな、急に、」
「ゆっくりでいいよ、よく考えて。…その代わり、もう同じことは訊かない」
同じ質問はしない。つまり、ここでとらわれることを選んだら、飛び立つことは許されない。彼はそう警告している。
――答えは、既に決まっている。
どうせ、逃げ場なんてない。飛び立つというのは、見捨てられるのを良しとするということ。
だから、私は――
「…とらえて、ください…先生、」
「本当に?…さっきみたいに着替えさせるとか、今みたいに押し倒すとか…それだけじゃ済まないよ?それがどういうことかわかってる?」
「わかってます、…だから、」
「とらわれたらもう逃げられないんだよ、いいの?」
「…はい、」
「後悔、しないね?」
先程呟いた時のような声で問い質される。どうやら、これが最後の警告らしい。先生の少し冷たい指が、頬をなぞる。
もう、後悔なんてない。ずっと想いを寄せていたミネルヴァ先生の手の中に堕ちるのだから。
頷いたのち、布団越しに覆い被さられる。
「――捕まえた、」
「せんせ、」
「これから…かわいがってあげるからね、」
そうやって私は先生の手で解放されてなお、今度は彼にとらわれることを自ら選んでしまう。彼が本当に手に入れたかったであろうエマちゃんのことも、私を好いているレイくんのことも、これまで私から自由を奪ってきた親のことも、今は考えたくなかった。
全てを、ミネルヴァ先生の手で書き換えられることを望んだ。
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