アンノウン・デイブレイク
いつもの駅の改札に停まっている、オレンジと青のラインが引かれた電車。その行き先は知っているが、そこがどんな場所かは知らない。
――それは、私を知らない世界に連れて行ってくれるということ。
繰り返しの日常に退屈しているわけでも、さしたる不満があるわけでもない。
ただ、少しだけ手を伸ばしたくなった。
知らない世界を、知っている世界にしたくなった。それだけだ。
ほんの少しの不安を、それ以上の期待で押さえ込んで。
私はその電車に乗り込んだ。
***
電車を降りて駅を出たら、その先は未知の万華鏡。見上げた空は、既に暗い。
ただ、当て所なく彷徨い歩くだけ。それでいい。
途中で、視界に入り込んできた4階建てのビル。化粧品ブランドの旗艦店のようだ。外装に惹かれ、足を踏み入れる。
1階をざっと見渡す。
そこには、ディスプレイされた幾つものバスボム。あるいは、シャワージェリー。あるいは、シャンプーバー。エトセトラ、エトセトラ。
テーブルに並べられたボウルに目を向けていると、1人の店員さんの声がした。
「あの、何かお探しでしょうか?」
振り返り、姿を捉える。
白いメッシュが入った茶髪と水色の瞳をした、穏やかそうな人。衛生面からだろうか、マスクをしている。
「何か探してたってわけじゃなくて、その…何だろうなー…と思って」
「それなら、試してみますか?」
「是非…!」
彼の説明によると、ボウルの中身はフェイスマスクというものなのだそうだ。
その中からピンク色のものが入ったボウルを取った、かと思えば。
「失礼しまーす」
そう言うと、彼は左手で私の右手を取り、ヘラで掬ったフェイスマスクを手の甲に塗っていく。薔薇のオイルが含まれているらしい。
手の甲を流れ落ちるそれは、少し冷たい。
少し後ずさりしようとすれば、見透かされていたのか止められる。
「気後れしなくて大丈夫ですよー。15分くらい、そのままにしていてくださいね」
その間、流しの近くで待つことになった。
「このお店は、どのようなきっかけでいらしたんですか?」
「たまたま目にして、ちょっと行ってみようかなーって」
「そうなんですね!どこから?」
訊かれるがままに、私はここに来た理由や住んでいる方面などを答えた。
彼もまた、私に色々なことを教えてくれた。
学生時代はゲーム実況をしていたこと。
他のこともしてみたいと思い、職場を探したこと。
今は学生時代の親友に面倒を見てもらいながら、ここで働いていること。
しばらくして、彼がちらりと時計に目をやるところが見えた。
「そろそろ、時間ですね」
どうやら、15分が経ったらしい。
側にあった流しに行き、フェイスマスクを洗い流される。
「この後お出掛けされるんですよね?それなら、そのあとが楽しくなるように香水吹き付けちゃいますね」
今度は左手に、白いアトマイザーに入ったネロリの香水を吹き付けられた。
それから全フロアの商品を一通り紹介してもらって、私は店を出た。
***
「あの店員さん、名前訊いとけばよかったなぁ…」
――どうして。
どうして、こんなに心がひりひりするのだろう。
わからない。
苦しい、そうじゃない。
熱い、それだけじゃない。
不安を押さえ込んだあの期待、とも違う。
心の柔らかい部分に破片が突き刺さって、傷口から止め処なく温かい何かが流れてくるような。
この感覚を消してしまえれば、どんなに楽だろうと思うのに――どうしてか、それが出来ない程内側に引っかかっているのだ。
冷たい水を飲んでも、冷えるのは体ばかりで。
なぞるように、確かめるように、右手の甲を撫でてみる。
そうすれば、何かがわかる気がして。
その熱の名前も知らぬまま、私はネオン街へと歩を進めた。