イミテイシア

あの子――桂木くんと出会ったのは2年前。向こう側の引っ越しで、母親らしき人と一緒に隣の部屋に来ていたのを覚えている。
第一印象は『健気な子』だった。母親の為に一生懸命家のことをしている、そんな姿に感心していた。

私はというと、元々専門学校に通っていたものの、学費を稼ぐために夜の仕事をしなければいけなかった。そのうち専門学校を中退し、今の仕事に専念している。資金はあるものの、かといって生活水準を上げる気にはならず、生活がよくなるわけでもなかった。

そんなある日。
帰宅後、私は扉の鍵を閉め忘れてしまった。疲れてそこまで頭が回らなかったのだろう。こんこん、と扉を叩く音を聞き、覚束ない足取りで玄関に向かう。
桂木くんだった。開きかけた扉を見かね、訪ねてきたらしい。

「…大丈夫ですか、**さん」
「君は…えっと、お隣の…桂木くん。だったよね」
「覚えていてくれたんですね。ありがとうございます」
「いいって。こちらこそ、教えてくれてありがと」

そういえば、今は昼の12時だ。
彼は確か中学生だった、はず。それなら、なぜ――

「学校はいいの?」
「ああ、早く終わったんです。**さんは?」
「私は仕事が夜だからね。今は二度寝してたの」

そう言って、桂木くんはインスタント食品の容器の残骸がたくさん入ったポリ袋に目を向けた。
私には特筆することではない日常だったが、彼はそれを気にかけてくれたのだ。

「もう…毎日こういうの食べてるんですか?」
「不規則になっちゃうし…それに、私家事とか無理なんだよね」
「うちの朝食の余りでよければ、お裾分けしますよ?」

申し訳ないので断ろうかと思ったけれど、断るのも逆に気が引ける。頷くと、あの子は一旦自分の家に戻っていった。
手作りだという炒め物をタッパーに詰めて、再びここを訪ねてきた彼。私は差し出されたそれが溢れないように、両手で慎重に受け取る。

その後、私に色々な事情を話してくれた。
あの子は父親と関係が悪いらしく、お金を取られることも多いとのことだ。だから、父親がいない時を見計らって彼にお小遣いをあげる約束と、彼が部屋にひとりになる前に私がお金を一時的に預かる約束をした。
いくら非常識な父親でも、流石に隣人の家に入ろうとまではしないだろう。そう考えた上での対策だ。

「**さん、そこまでしてくれるんですか?」
「お礼だと思ってよ。というか、他人行儀すぎない?お姉さんだと思ってくれていいから、ね」
「『お姉さん』かー…なら、俺も弟みたいに思ってください」
「そっかー、じゃあ『眞己くん』だ。よろしくね?」

――その時は、ただの隣人でいられると思っていたのに。

***

私が成人した次の年、あの子は高校に上がった。
それを受けたのかはわからないけれど、私と彼の間柄は徐々にだが確実に変化していった。泥沼、というには少し違う。互いの片脚ずつが糸で結ばれていて、絡まりを解そうとするほどにその糸が縺れていく、そんな。

私が仕事休みで家にいると、ふいにインターホンが鳴った。

「お姉さん、いる?」

扉を開けたその先に映るのは、いつもこの時間には会わない眞己くんの姿だった。聞けば、母親が出張になってしまったらしい。もう高校生になったんだから1人で家にいてもいいと、そう判断したのだろう。
彼の父親が留守中にお金を取りに来る可能性も考えて、今日は泊めていくことにした。

「…わかった、うちでよければ泊まっていってよ。眞己くんさ、高校生とはいえまだ未成年でしょ?隣だったら、お母さん帰ってきてもすぐに戻ってこれるだろうし」
「ありがと。お姉さんの仕事は大丈夫なの?」
「うん、今日は休みだから」

また眞己くんが持ってきてくれた夕食を頂いて、私は彼に風呂を貸して。私が入れたラベンダーとオレンジの入浴剤の香りが、まだ辺りを漂っている。
布団は私の分しかなかったけれど、彼はそれでもいいと言ってくれた。

「あーあ…お客さんが全員眞己くんだったらいいのにね…」
「…うん?どしたの、お姉さん」
「他の人って、大抵皆私をぎらぎらした目で見るんだよね。眞己くんはそうじゃないでしょ?」

一見煌びやかに取り繕った表舞台も、その穢れた裏側も何度だって見てきた。私に向けられる何もかもが偽物だと、私は知っている。
けれど、他の誰かが向けてくるぎらぎらとした偽りだらけの視線は、彼からは一切向けられない。

どこか遠くを見ているような、青い瞳。
本当のことしか映さないその硝子玉は、埋めるものさえ何もない。

「君は、優しいね。でも…少し、寂しそう」
「『寂しそう』…か。なるほどね」

目を細めて、そっと呟く彼。
その次の言葉は、私の予想だにしないもので――

「――仮にそうだとして、お姉さんはそれを埋めてくれるというの?」



断ち切らねば解けない程に、私達の間の糸は絡まりだした。私とあの子は、もうただの隣人ではいられなくなってしまった。
あまりにも軽はずみな、ただの戯れのつもりだった。

大して広くもない私の布団の中で、触れ合える距離で向き合って。
罪悪感がない、わけじゃない。けれど、そう簡単に後には引けないのもまた事実で。

「髪、さらさらだね。それに、いい匂いする…」
「そうかな、」
「でも、仕事場だともっと飾りつけてるんでしょ?俺はこのままのお姉さんが好きだけどなあ…」

少し骨ばった指で、髪を掬う。
そんな眞己くんの言葉は一瞬だけ嘘かお世辞かと思ってしまったけれど、えけれど、目を合わせればやっぱりそこに偽りはなくて。

「…本当?」
「こういう時に嘘言っても、意味ないと思うけど?」
「だね。やっぱり眞己くんは優しいよ、」
「言うほどじゃないよ。…お姉さん、手…繋いでもいいかな」

片手を繋ぎ、私の方から指を絡める。
普通はもっと先を求めるものなのだろうが、彼はその先に進もうとはしない。年齢故だろうか、それとも元々そういう性格なのか。

「その…しなくて、いいの?」
「今はこうしていられればいいよ。そんな薄っぺらいのじゃ、寂しさなんて埋まらないだろうしさ?」

言われてみれば、確かにそうだ。周りに対するように、嘘を見せなくてもいい。見せたとしても、きっと彼には絶対に気づかれるだろうから。

――そうか。
偽物ばかりの日常をかき分けなくたって、探し物はすぐ隣にあったんだ。

誰も知らない世界の片隅、私とあの子だけがいる。
この瞬間だけが、本物だ。