レイニーミントキャンディ

かさついた唇が、乾きに悲鳴を上げる。
これがトリオン体ならなんともないのだが、今は生身だ。どうしようかという焦りでメイクポーチからメントールのリップスティックを取り出すも、蓋を開けた先に薄黄色の中身はほとんどなかった。

「どうしよ……買わないとだめかもなぁ、」

そういえば駅前のコスメショップに新商品のリップスティックがあり、本来ならそれを買う予定だった。のだが、一昨日ごろに向かった時はちょうど売り切れていて、そのままリップクリーム自体を買わずにいたんだっけ。
全く――何をやってるんだろう、私は。

と、そんな私の目の前に眼鏡をかけた翠眼の少年が歩いてくる。

「君は……えっと、玉狛の」
「はい、三雲です」
「そうだった!」

思い出した。
確か、彼は今ランク戦で急成長中の玉狛第2を率いている隊長だ。そんな彼が、なぜここにいるのだろう。本部所属の隊員に技を教わっているらしいから、今日もその訓練だろうか。

「それで、なんで本部に?」
「今木虎と待ち合わせなんですけど、メディアの取材が押していて少し遅れてしまうそうで。って……**先輩。唇、乾いてますね」

私の予想が当たって驚いていたところ、彼はさらに私を驚かせてきた。
――私が今悩んでいたことに、気づかれてしまったのだ。
マスクをしているわけでもないので、見て気づかれること自体は何ら不自然なことではない。のだが、そういうことにあまり興味のなさそうな彼がどうしてわざわざ、しかもそれを私に言ってくれたのだろうか――それは、とりあえず考えないことにした。
次の三雲くんの行動が、さらに予想もつかないことだったからだ。

「……えっ、」
「先輩、ちょっと待っててください」

鞄から小さなショッパーを出した、かと思ったら。
彼がその袋を開け中から取り出したそれは、まさしくあの時買おうと思っていた新商品だった。その筒からは蓋を開けていない今の時点でも、ほのかにミントチョコレートのような香りが漂う。

「それ……私が買おうと思ってて売り切れてたやつじゃん!」
「そうなんですか?……まあ、不思議に思っても仕方ないですよね」

なぜそれを、三雲くんが持っているのだろう。
彼曰く、彼の隊の隊員である雨取さんがもうすぐ誕生日を迎えるとのことで彼女に贈り物をしようかと例の店に行ったはいいが、間違えて2個買ってしまったらしい。かといってかなり甘い香りのそれを自分がつけるわけにもいかず、今の今まで持て余していたとのことだ。

「先輩、これ買おうとしてたんですよね?」
「そ……そう、だけど」
「よかったら……僕のこれ、お譲りしましょうか?」

驚きで何も言えずにいると、彼はそのリップスティックを私に譲るとまで言ってきた。持っていても仕方ないから必要としている私に譲った方がいいと、そう判断したそうだ。

「……いいの?」
「はい、どうせ僕は使わないですし。その代わり、」
「ん?」
「今から先輩の唇に、それ……塗らせてください」

待って。
それはもう、驚きを通り越して戸惑いを感じてしまうではないか。

「僕が、今から塗るべきだと思ったので。だめですか?」
「だめ……じゃない、けど」

――そうだった。
三雲くんは常に『自分がそうすべきだと思ったことからは絶対に逃げない』という信念を貫いており、加えて空閑くんからも『面倒見の鬼』と評されるほどのお人好しだ。
とはいえ、彼にリップスティックを貰うまでならまだしも、彼にそれを塗られることになるだなんて。
流石に予想の斜め上を全力で突っ走りすぎて、開いた口が塞がらない。

「あの……口、閉じてくださいね。塗りにくいので……」
「……ごめん!そうだよね!」

とりあえず言われるがままに口を閉じると、三雲くんはリップスティックの蓋を開けその中身を数ミリ出す。そのまま彼は私の顎を指で上げさせ、唇にそれを塗り込んでいった。
彼のペリドットグリーンの瞳が目の前に映ったかと思うと、乾いた砂漠に慈愛の雨が降るように、ミントの雫が唇を潤していく。

「はい、塗れましたよ。……あ、」
「ん、どうしたの……って、え……?」

終いには、その潤いを封じ込めるように、自分の唇を重ねてきたのだ。
――待って。私達、付き合ってなんかない……よね?
さっきといい今といい、驚かされっぱなしだ。しかも私は、さっきのがファーストだというのに。

「これで、意識してくれましたか?先輩、」
「…………って、それは、どういう……」

意識してくれたか――って、どういう意味なのだろう。
もしかして、彼は私に好意を持ってくれていたのか。そう考えると、先程の唇の荒れにすぐ気づいてそれを指摘したのにも合点がいく――にしても、流石にこれは大胆すぎる。
これでは、次に本部で会ったとしても、まともに顔も見れなくなってしまうではないか。

「その……三雲くん?」
「あ、忘れてました。これ、譲る約束でしたよね」

そのまま三雲くんは何食わぬ顔で、少し使われたリップスティックを手渡してくる。こっちはさっきの彼の行動のせいで、それどころではないというのに。
あまりの出来事に、放心状態になってしまう。

「それでは、僕はそろそろ待ち合わせなので行きますね」
「あっ……うん、行ってらっしゃい……」

顔を上げずに見送ったのは、せめてもの照れ隠し。
だが、相手は私よりも鋭い三雲くんだ。どうせ、今の私には隠しきれていないのだろう。

鞄からメイクポーチを取り出す余裕など、今の私にあるわけもなく。
彼にもらったリップスティックを、黙ってポケットにしまうことしかできなかった。