なにもいわないで

あらゆるものは、与えられすぎるとやがて駄目になる。
餌を与えられすぎたネオンテトラが膨れて浮力を持ってしまうように、肥料を与えられすぎた植物が肥料やけを起こして枯れてしまうように。人もまた、甘やかされすぎるとやがて思考を手放してしまうのだと。
――それは、誰の言葉だったか。



「ゆっくりしてていいからね、」

辰也さんの部屋の中。
少しでも勉強を進めたいからと持ち込んだ大学の資料をぺらぺらと捲っていると、右手の薬指に感じる痛みがそれを止める。
目をやるとそこには小さな傷ができており、開いた箇所から血が流れていた。

「どうしたの?……指、切っちゃったんだね」
「はい……そうみたいです」
「ん、貸してごらん」

辰也さんは人生で一度も怒ったことがないらしく、それはもちろん私に対しても同じで。今ですら私を咎めることもせず、それどころか優しく私の右手を取ってくれた。
手を切ったのは、私の不注意――つまり、私のせいなのに。
このまま絆創膏でも貼ってくれるのだろうかと思っていると、彼はその指を咥えて傷口に舌を這わせ、そこから染み出してくる赤い血を軽いリップ音を立てて舐めとってきた。
彼の口から覗く舌が、やけに煽情的に見えて。

いつの間にか、釘付けになってしまっていた。

「……っ、今……何を、」
「ごめんね。資料の整理くらい、僕がしてあげればよかったね」

驚きに口を開けたままの私をよそに、辰也さんはいつもと変わらない笑顔で微笑みかける。
――彼は今、なんと言ったのか。
今、確かに『僕がしてあげれば』と言った。
『手伝って』あげれば、ではない。僕が『して』あければ、と――

「その……それ、って」
「すぐに気づけなかったせいで、**ちゃんに怪我させちゃったね。でも大丈夫、これからは全部僕がやってあげるからね」
「そんなの……っ、」

そんなの、あまりにも申し訳なさすぎる。
普段の支部でも世話になっている彼に、もうこれ以上迷惑かけるわけにはいかない。ましてや自分が通っている大学のことなのに、無関係の彼に手伝わせるどころか、全部させようだなんて。
――断らなきゃ。
辰也さんの申し出を断ることは少し心が痛むけれど、仕方ない。

「駄目です、それくらい自分で……っ、」

その拒否の言葉がうまく形になりかけたところで、泡のように弾けて消えた。
まだ少しだけ血の味がする彼の唇で、私のそれが塞がれてしまったのだ。

アクアリウムで溺れているかのように、息ができない。
そこから抜け出そうともがいても、誂えのベッドに身体が沈んでいく一方で。

口が離された時には、立ち上がる力すら残されていなかった。

「……たつや、さん……っ」
「大丈夫。**ちゃんは何もしなくていいの。今シーズン分のランク戦ももうないし、これからはずーっとうちにいて?」
「でも……っ、」

早く、早く逃げなければ。
このまま甘やかされっぱなしでいたら、私は辰也さんがいなければ生きられない身体になってしまう。
そう焦る私をなだめるように、彼はゆるゆると頭を撫でてきた。

「……っ、そんなの……駄目になっちゃ……っ、」
「駄目になっていいんだよ?**ちゃんがどんな風になっても、僕の大事な彼女であることに変わりはないんだから」
「たつやさん、」
「ね、何も言わないで……僕と、一緒にいてくれる?」

――それは懇願か、命令か。
投げかけられたその言葉を、私は受け入れるしかなかった。