在りとして辿る
※夢要素皆無
例えば白い壁に白いオブジェがいくつか並べられたとして、光が当たらなければそれらは壁と同化して見えるだろう。そこに光が当てられて、初めて影が浮かび上がっていくのだから。
それと同じで、玄界にいると自分の知らなかったものがいくつもの形で可視化されていく。
――気づかされていくのだ。
***
タマコマ支部の一室。
暇だろうから使ってもいいと机の上に用意された透明水彩絵具をパレットの上に出し、水を筆に含ませて広げていく。
カドミウムレッドがユーマ、リーフグリーンはオサム。ブライトバイオレットはチカ、で。
「このターコイズブルーが、ジン……」
何を描くでもなく、透明な水に滲んでいく色達を平筆の先で擽り広げる。
雫がパレットの上で広がるさまを見るのは嫌いではない。ただ、その色を目の前の白い紙にまで辿り着かせるまでには至らなかったというだけだ。
それを何分か続けていると、扉を叩く音がする。
確か、彼女はジンの知り合いだったか。名前は――
「……**?」
「あ、覚えててくれたんだ」
「なぜここに、」
聞くところによると、彼女はタマコマの関係者ではなく、ジンに個人的な用があってこの建物を訪れたそうだ。ただジンは間が悪いことに外出中であり、彼の帰還を待っているのが暇だからとタマコマの部屋をひとつひとつ見ている途中でここを訪れたということだ。
「……成程」
「まあね。で、君は……」
――絵具をパレットに広げるだけ広げて、何も描かないのか。
確かにそれは誰もが疑問に思うであろうから、今更訊かれても何ら不思議ではない。本来その名が示すように絵具とは絵を描くためのものであり、色が水に溶けるさまを見るという目的で絵具を使う者などそういないだろう。
描くものが特に何もない、だから何も描かない。ただ、それだけの話だ。
特に他の意図もなく肯定する、と**はそれに対して反論も何も言わずただ微笑みながらそのままを受け取った。
「あー……ごもっともだわ」
「……」
「けどさ、別に絵って決まったもの描かなきゃいけないわけじゃなくない?」
言われてみれば、確かにそうだ。具体的な対象を決めて、それを描き写したものだけが絵とは限らない。
極端な話、この真っ白な画用紙に左から丸、三角、四角と大きく描いたとしても、描いた本人がそれを絵と言ったのならばそれは絵で間違いない。また、水分を含んだ絵具を滴して流したりするのも、細かな目を持つ網に絵具を塗りブラシでこすることで小さな粒子として飛ばすのも、絵具を挟み折った紙を再び開くことで偶発的な模様を得るのも立派な技法だと、オサムから借りた美術の教科書とやらに書いてあった。
「まあ、間違ってはないな」
「でしょ?そこをあえて何も描かなかった理由っていうのかな、それがどうも気になっちゃってさ」
「理由……か」
理由などない。
描くものが『ない』なら画用紙に何も描かず白紙のままにすればいいし、事実そうした。けれど、そこに理由が『ない』ことは、どう証明したらいいかわからない。
何も感じなかったと、そう受け取られても間違いではない。
「……特にはないな」
「そっかそっか。でも、事実として君はパレットの上に色を広げてるんだよね。色を選ぶ時にどんなこと考えてたか、覚えてる?」
「それを訊いてどうする、」
「どうするって……君のことを知る」
曰く、色はその人の心のありようを、ひいてはその人自身を表すらしい。
色の持つ効果や象徴性に心を重ね、『己とは何者なのか』『己は何のために生まれて来たのか』『己が人生とは何なのか』などについて探究していく学問があるとのことだ。
あの時に思い浮かべていたのはユーマ達の瞳の色だが、それらとは別に色としての意味が存在するということだろうか。
「選ぶ時、か。……ユーマ達を思い浮かべていた」
「そっかー……言われてみれば、確かに遊真くんの瞳の色に似てるわ。こっちは修くんとか?」
「ああ。そうだが、それがどうかしたのか?」
「君は、それを画用紙にまで塗り広げなかったよね」
――パレットの内側で、完結している。
つまりは無意識下でちゃんとあいつらを仲間だと認識しているものの、そこから目を逸らそうとしていると――そう、**は分析したようだ。
「目を逸らしている……?」
「迅さんから聞いたよ。向こうの司令官さんから見捨てられて、置いていかれたんだってね。君はその時から自分がひとりぼっちのままだと思ってる、それがあの白い画用紙だ」
「……」
「けど、無意識下ではそうじゃない。君はひとりじゃないよ」
気づかされた。
本当は、孤独などではなかったのだと。
「……そう、だったのか」
確かに、ハイレイン隊長から見捨てられた時は孤独だった。
けれど今はユーマがいて、オサムがいて、チカがいて、認めたくないがジンもいる。
それに今だけかもしれないが、ここには**もいる。
「**、」
「ん?」
「お前のおかげで気づけた。礼を言う」
まっすぐに、目を見据える。
すると彼女はまた微笑んで、こちらに礼を返してきた。
「こっちこそありがと。君のこと知れてよかったよ」
「そういうものなのか?」
「うん。……ね、それでなんだけど」
――もっと知りたくなった。
そう告げた**の瞳は何も知らない純真無垢な子供か、あるいは研究対象への興味を抑えられない学者か。
きらきらと瞳を輝かせる彼女に、ひとまずは名前で呼ぶようにと返した。